・・・けれども夜はもう白みかけたと見え、妙にしんみりした蝉の声がどこか遠い木に澄み渡っていた。僕はその声を聞きながら、あした頭の疲れるのを惧れ、もう一度早く眠ろうとした。が、容易に眠られないばかりか、はっきり今の夢を思い出した。夢の中の妻は気の毒・・・ 芥川竜之介 「死後」
・・・ 客はしんみりと返事をした。あたかも彼自身子以上の人間だった事も知らないように。 芥川竜之介 「捨児」
・・・ 父の声は改まってしんみりとひとりごとのようになった。「今お前は理想屋だとか言ったな。それだ。俺しはこのとおりの男だ。土百姓同様の貧乏士族の家に生まれて、生まれるとから貧乏には慣れている。物心のついた時には父は遠島になっていて母ばか・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ ちらちら雪の降るなかを山へのぼって、尼寺をおたずねなすッて、炉の中へ何だか書いたり、消したりなぞして、しんみり話をしておいでだったが、やがてね、二時間ばかり経ってお帰りだった。ちょうど晩方で、ぴゅうぴゅう風が吹いてたんだ。 尼様が・・・ 泉鏡花 「清心庵」
・・・閑静で、落着いて、しんみりして佳い家だが、そんな幽霊じみた事はいささかもなかったぜ。」「いいえ、あすこの、女中さんが、鹿落の温泉でなくなったんです。お藻代さんという、しとやかな、優しい人でした。……おじさん、その白い、細いのは、そのお藻・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・いちじくの青い広葉はもろそうなものだが、これを見ていると、何となくしんみりと、気持ちのいいものだから、僕は芭蕉葉や青桐の葉と同様に好きなやつだ。しかもそれが僕の仕事をする座敷からすぐそばに見える。 それに、その葉かげから、隣りの料理屋の・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・そして、彼がやがて笛を吹きますと、その音色は平常の愉快な調子に似ず、なんとなく、しんみりとした哀しみが、その音色に漂って聞かれました。小鳥もまったく声を潜めているようでありました。光治は、その木の根からたち上がって、森の中をもっと奥深く歩い・・・ 小川未明 「どこで笛吹く」
・・・ 私を見ると、顎を上げて黙礼し、「しんみりやってる所を邪魔したかな」とマダムの方へ向いた。「阿呆らしい。小説のタネをあげてましてん。十銭芸者の話……」とマダムが言いかけると、「ほう? 今宮の十銭芸者か」と海老原は知っていて、・・・ 織田作之助 「世相」
・・・何も寄席だからわるいというわけではないが、矢張り婚約の若い男女が二人ではじめて行くとすれば、音楽会だとかお芝居だとかシネマだとか適当な場所が考えられそうなもの、それを落語や手品や漫才では、しんみりの仕様もないではないか、とそんなことを考えて・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・そして梅雨明けをまたずにお定は息を引き取ったが、死ぬ前の日はさすがに叱言はいわず、ただ一言お光を可愛がってやと思いがけぬしんみりした声で言って、あとグウグウ鼾をかいて眠り、翌る朝眼をさましたときはもう臨終だった。失踪した椙のことをついに一言・・・ 織田作之助 「螢」
出典:青空文庫