・・・欄干にもたれて何かしんみりした話でもしている時、程近い時の鐘が重々しいうなりを伝え伝えて遠くに消えることもあった。 いったい黒田は子供の時分から逆境に育ってずいぶん苦しい思いをして来た男だけに世間に対する考えもふけていて、深い眼の底から・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・笑わせておいてちょっとしんみりさせる趣向である。これが近ごろのこうした喜劇の一つの定型として重宝がられるらしい。しかしたまには笑いっ放しに笑わせてしまうのもあってはどうかと思われた。食事時間前の前菜にはなおさらである。 三番目「仇討輪廻・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・人に見せる絵と思わないで、自分で一人でしんみり楽しめるような絵をかくつもりでそのほうに頭を使ったら、ずっといい仕事のできる人だろうにと思う。 横山大観のしょうしょうはっけいはどうも魂が抜けている。塗り盆に白い砂でこしらえる盆景の感じその・・・ 寺田寅彦 「昭和二年の二科会と美術院」
・・・わたくしの心は暗くもならず明くもならず、唯しんみりと黄昏れて行く雪の日の空に似ている。 日は必ず沈み、日は必ず尽きる。死はやがて晩かれ早かれ来ねばならぬ。 生きている中、わたくしの身に懐しかったものはさびしさであった。さびしさのあっ・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・は、面白い思いつきと云う以上、何処まで発育し得るものであろう。自分には分らない。とにかく邯鄲は、材料も適したものであったと云えよう。「犬」は、しんみりと演じ、落着いて見れば、味いのある深い鋭い諧謔を包んだ作品である。こういうものは、すっ・・・ 宮本百合子 「印象」
・・・ 私も、女性が――人間全体が――もっと人間らしい自由な輝ある生活をしなければならないこと、特に女が、醒め、しっかり自分を視、人生を空虚な時間的推移でなく送るべきことを、しんみり希望し、期待して居ります。 勿論、そのためには、現在の諸・・・ 宮本百合子 「大橋房子様へ」
・・・と題してきり出された勇ましいその評論も、すえは何となししんみりして、最後のくだり一転は筆者がひとしおいとしく思っている心境小説の作家尾崎一雄を、ひいきしている故にたしなめるという前おきできめつける、歌舞伎ごのみの思い入れにおわった。ジャーナ・・・ 宮本百合子 「現代文学の広場」
・・・小さい女の子もいそいそと一人前に椅子にかけて、さて、小さいお椀によそって出された、栗ぜんざいを一吸いして、私たちは、しんみりとおとなしくなってしまった。やがて、女の子が情けなさそうに、「もういいの」と母親にお箸をかえそうとした。私は・・・ 宮本百合子 「琴平」
・・・ですから二頭曳の馬車の中はいい心持にしんみりしていて、細かい調子が分かります。平凡な詞に、発音で特別な意味を持たせることも出来ます。あの時あなたわたくしに「どうです」とそうおっしゃいましたね。御挨拶も大した御挨拶ですが、場所が場所でしたわね・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「辻馬車」
・・・しかし彼の製作にはしんみりした所がまるでない。彼は愛のあふれた人間をも、道に苦しむ人間をも、描くことができない。畢竟、彼は人類の姿を描き出すことができない。彼には悪を憎む心のみあって憐慰がない。この関係を彼のメフィストが示している。彼のメフ・・・ 和辻哲郎 「転向」
出典:青空文庫