・・・や、ラファエルのマドンナの写真のほかにも、自炊生活に必要な、台所道具が並んでいる。その台所道具の象徴する、世智辛い東京の実生活は、何度今日までにお君さんへ迫害を加えたか知れなかった。が、落莫たる人生も、涙の靄を透して見る時は、美しい世界を展・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・まだその騒ぎの無い内、当地で、本郷のね、春木町の裏長屋を借りて、夥間と自炊をしたことがありましたっけが、その時も前の年火事があったといって、何年にもない、大変な蚊でしたよ。けれども、それは何、少いもの同志だから、萌黄縅の鎧はなくても、夜一夜・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・そこはトキワ会が近くて絵を借りに行くのが便利だったのと、階下がうどん屋だから、自炊の世話がいらなかったからです。ところが、そのうどん屋では酒も出すので、寒い夜道を疲れて帰った時などつい飲みたくなる。もともといける口だし、借も利くので、つい飲・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ 二十八の夏でございました、そのころはやや運が向いて参りまして、鉄道局の雇いとなり月給十八円貰っていましたが女には懲りていますから女房も持たず、婆さんも雇わず、一人で六畳と三畳の長屋を借りまして自炊しながら局に通っておったのでございま・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・それには友だちの一人と十五円ずつも出し合い、三十円ばかりの家を郊外のほうに借りて、自炊生活を始めたいと言い出した。敷金だけでも六十円はかかる。最初その相談が三郎からあった時に、私にはそれがお伽噺のようにしか思われなかった。 私は言った。・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・ひとびとの情で一夏、千葉県船橋町、泥の海のすぐ近くに小さい家を借り、自炊の保養をすることができ、毎夜毎夜、寝巻をしぼる程の寝汗とたたかい、それでも仕事はしなければならず、毎朝々々のつめたい一合の牛乳だけが、ただそれだけが、奇妙に生きているよ・・・ 太宰治 「黄金風景」
・・・と家は綺麗に焼かれて、女房は留守中に生れた男の子と一緒に千葉県の女房の実家に避難していて、東京に呼び戻したくても住む家が無い、という現状ですからね、やむを得ず僕ひとり、そこの雑貨店の奥の三畳間を借りて自炊生活ですよ、今夜は、ひとつ鳥鍋でも作・・・ 太宰治 「饗応夫人」
・・・のみ考え、ちかき人々にも、ここだけの話と前置きして、よろこびわかち、家郷の長兄には、こんどこそ、お信じ下さい、と信じて下さるまい長兄のきびしさもどかしく思い、七日、借銭にてこの山奥の温泉に来り、なかば自炊、粗末の暮しはじめて、文字どおり着た・・・ 太宰治 「創生記」
・・・私は、ひとりアパートに残って自炊の生活をはじめた。焼酎を飲む事を覚えた。歯がぼろぼろに欠けて来た。私は、いやしい顔になった。私は、アパートの近くの下宿に移った。最下等の下宿屋であった。私は、それが自分に、ふさわしいと思った。これが、この世の・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・いまだに疎開から家族のよびもどせない良人たちは、良人であると同時に、その自炊生活において妻である。そしてこれは全く不自然だと感じられているのである。 そうしてみると、良人の協力ということは、今あるままの労力のひどい台所仕事をそのまま男も・・・ 宮本百合子 「明日をつくる力」
出典:青空文庫