・・・何卒私が目をつぶりますまででよろしゅうございますから、死の天使の御剣が茂作の体に触れませんよう、御慈悲を御垂れ下さいまし。」 祖母は切髪の頭を下げて、熱心にこう祈りました。するとその言葉が終った時、恐る恐る顔を擡げたお栄の眼には、気のせ・・・ 芥川竜之介 「黒衣聖母」
・・・それから某宗の管長某師は蟹は仏慈悲を知らなかったらしい、たとい青柿を投げつけられたとしても、仏慈悲を知っていさえすれば、猿の所業を憎む代りに、反ってそれを憐んだであろう。ああ、思えば一度でも好いから、わたしの説教を聴かせたかったと云った。そ・・・ 芥川竜之介 「猿蟹合戦」
・・・せめては今日会っただけでも、仏菩薩の御慈悲と思うが好い。」と、親のように慰めて下さいました。「はい、もう泣きは致しません。御房は、――御房の御住居は、この界隈でございますか?」「住居か? 住居はあの山の陰じゃ。」 俊寛様は魚を下・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・クララが顔を上げると彼れは慈悲深げにほほえんだ。「嫁ぎ行く処女よ。お前の喜びの涙に祝福あれ。この月桂樹は僧正によって祭壇から特にお前に齎らされたものだ。僧正の好意と共に受けおさめるがいい」 クララが知らない中に祭事は進んで、最後の儀・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・仕事の緒口をここに定めておくつもりであり、また私たち兄弟の中に、不幸に遭遇して身動きのできなくなったものができたら、この農場にころがり込むことによって、とにかく餓死だけは免れることができようとの、親の慈悲心から、この農場の経営を決心したらし・・・ 有島武郎 「小作人への告別」
・・・ ne permettrais jamais, que ma fille s'adonnt une occupation si cruelle.”「宅の娘なんぞは、どんなことがあっても、あんな無慈悲なことをさせようとは思いません」と云・・・ 著:アルテンベルクペーター 訳:森鴎外 「釣」
・・・これは巌谷さんの所へ言って来たのであるが、先生は、泉も始めて書くのにそれでは可憫そうだという。慈悲心で黙って書かしてくだすったのであるという。それが絵ごとそっくり田舎の北国新聞に出ている。即ち僕が「冠弥左衛門」を書いたのは、この前年であるか・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・かるすべもありそうな、見た処の一枝の花を、いざ船に載せて見て、咽喉を突かれてでも、居はしまいか、鳩尾に斬ったあとでもあるまいか、ふと愛惜の念盛に、望の糸に縋りついたから、危ぶんで、七兵衛は胸が轟いて、慈悲の外何の色をも交えぬ老の眼は塞いだ。・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・けれども、下世話にさえ言います。慈悲すれば、何とかする。……で、恩人という、その恩に乗じ、情に附入るような、賤しい、浅ましい、卑劣な、下司な、無礼な思いが、どうしても心を離れないものですから、ひとり、自ら憚られたのでありました。 私は今・・・ 泉鏡花 「雪霊記事」
・・・の売りと買いの勝負は、むろんお前の負けで、買い占めた本をはがして、包紙にする訳にも思えば参らず、さすがのお前もほとほと困って挙句に考えついたのが「川那子丹造美談集」の自費出版。 しかし、これはおかしい程売れず、結果、学校、官庁、団体への・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
出典:青空文庫