・・・州に向つて毒を流し来る 里見義実百戦孤城力支へず 飄零何れの処か生涯を寄せん 連城且擁す三州の地 一旅俄に開く十匹の基ひ 霊鴿書を伝ふ約あるが如し 神竜海を攪す時無かる可けん 笑ふ他の豎子貪慾を逞ふするを閉糴終に良将の資とな・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・だから街道は日によってはその樹脂臭い匂いや、また日によっては馬力の通った昼間の匂いを残していたりするのだった。 橋を渡ると道は溪に沿ってのぼってゆく。左は溪の崖。右は山の崖。行手に白い電燈がついている。それはある旅館の裏門で、それまでの・・・ 梶井基次郎 「闇の絵巻」
・・・小松のみどりが強烈な日光に照らされて樹脂中の揮発成分を放散するのであろう。この匂いを嗅ぐと、少年時代に遊び歩いた郷里の北山の夏の日の記憶が、一度に爆発的に甦って来るのを感じる。 宿に落着いてから子供等と裏の山をあるいていると、鶯が鳴き郭・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・幻影の盾を南方の豎子に付与す、珍重に護持せよと。われ盾を翳してその所以を問うに黙して答えず。強いて聞くとき、彼両手を揚げて北の空を指して曰く。ワルハラの国オジンの座に近く、火に溶けぬ黒鉄を、氷の如き白炎に鋳たるが幻影の盾なり。……」この時戸・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・しかれども蕪村は成功する能わずして歿し、かえって豎子をして名を成さしめたり。 蕪村の画を称する者多く俳画をいう。俳画は蕪村の書きはじめしものにして一種摸すべからざるの雅致を存す。しかれども俳画は字のごときもののみ、ついに画にあらず、画を・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
出典:青空文庫