・・・着ているのは黒の背広であるが、遠方から一見した所でも、決して上等な洋服ではないらしい。――その老紳士が、本間さんと同時に眼をあげて、見るともなくこっちへ眼をやった。本間さんは、その時、心の中で思わず「おや」と云うかすかな叫び声を発したのであ・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・ 堀尾一等卒にこう云われたのは、これも同じ中隊にいた、小学校の教師だったと云う、おとなしい江木上等兵だった。が、そのおとなしい上等兵が、この時だけはどう云う訣か、急に噛みつきそうな権幕を見せた。そうして酒臭い相手の顔へ、悪辣な返答を抛り・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・ これはつうやの常套手段である。彼女は何を尋ねても、素直に教えたと云うことはない。必ず一度は厳格に「考えて御覧なさい」を繰り返すのである。厳格に――けれどもつうやは母のように年をとっていた訣でもなんでもない。やっと十五か十六になった、小・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・ジムというその子の持っている絵具は舶来の上等のもので、軽い木の箱の中に、十二種の絵具が小さな墨のように四角な形にかためられて、二列にならんでいました。どの色も美しかったが、とりわけて藍と洋紅とは喫驚するほど美しいものでした。ジムは僕より身長・・・ 有島武郎 「一房の葡萄」
「僕の帽子はおとうさんが東京から買って来て下さったのです。ねだんは二円八十銭で、かっこうもいいし、らしゃも上等です。おとうさんが大切にしなければいけないと仰有いました。僕もその帽子が好きだから大切にしています。夜は寝る時にも・・・ 有島武郎 「僕の帽子のお話」
・・・段々秋が深くなると、「これまでのは渡りものの、やす女だ、侍女も上等のになると、段々勿体をつけて奥の方へ引込むな。」従って森の奥になる。「今度見つけた巣は一番上等だ。鷺の中でも貴婦人となると、産は雪の中らしい。人目を忍ぶんだな。産屋も奥御殿と・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・銃口が私の胸の処へ向きましたものでございますから、飛上って旦那様、目もくらみながらお辞儀をいたしますると、奥様のお声で、 おやお婆さん、ここは上等の待合室なんだよ、とどうでしょう……こうでございます。 人の胃袋の加減や腹工合はどうで・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・今の道徳からいったら人情本の常套の団円たる妻妾の三曲合奏というような歓楽は顰蹙すべき沙汰の限りだが、江戸時代には富豪の家庭の美くしい理想であったのだ。 が、諸藩の勤番の田舎侍やお江戸見物の杢十田五作の買妓にはこの江戸情調が欠けていたので・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・「ご隠居さん、ここには上等のお菓子はありません。飴チョコならありますが、いかがですか。」と、菓子屋のおかみさんは答えました。「飴チョコを見せておくれ。」と、つえをついた、黒い頭巾をかぶった、おばあさんはいいました。「どちらへ、お・・・ 小川未明 「飴チョコの天使」
・・・そして、旧習慣、常套、俗悪なる形式作法に囚われなければならぬのか。 塵埃に塗れた、草や、木が、風雨を恋うるように、生活に疲れた人々は、清新な生命の泉に渇するのであります。詩の使命を知るものは、童話が、いかに、この人生に重大な位置にあるか・・・ 小川未明 「『小さな草と太陽』序」
出典:青空文庫