・・・宿の戸を叩こうとすると、すこしおくれて歩いて来たかず枝はすっと駈け寄り、「あたしに叩かせて。あたしが、おばさんを起すのよ。」手柄を争う子供に似ていた。 宿の老夫婦は、おどろいた。謂わば、静かにあわてていた。 嘉七は、ひとりさっさ・・・ 太宰治 「姥捨」
一 たましいの、抜けたひとのように、足音も無く玄関から出て行きます。私はお勝手で夕食の後仕末をしながら、すっとその気配を背中に感じ、お皿を取落すほど淋しく、思わず溜息をついて、すこし伸びあがってお勝手・・・ 太宰治 「おさん」
・・・上部は荷物と爪折笠との為めに図抜けて大きいにも拘らず、足がすっとこけて居る。彼等の此の異様な姿がぞろぞろと続く時其なかにお石が居れば太十がそれに添うて居ないことはない。然し太十は四十になるまで恐ろしい堅固な百姓であった。彼は貧乏な家に生れた・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・「なぜぬすっとをしない。」爺いさんが荒々しい声で云った。 この詞は一本腕の癪に障った。「なに。ぬすっとだ。口で言うのは造做はないや。だが何を盗むのだ。誰の物を盗むのだ。盗むにはいろいろ道具もいるし、それに折も見計わなくちゃならない。・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・森へ入りますと、すぐしめったつめたい風と朽葉の匂とが、すっとみんなを襲いました。 みんなはどんどん踏みこんで行きました。 すると森の奥の方で何かパチパチ音がしました。 急いでそっちへ行って見ますと、すきとおったばら色の火がどんど・・・ 宮沢賢治 「狼森と笊森、盗森」
・・・僕がこいつをはいてすっすっと歩いたらまるで芝居のようだろう。まるでカーイのようだろう、イーのようだろう。」「うん、実にいいね。僕たちもほしいよ。けれど仕方ないなあ。」「仕方ないよ。」 雪の峯は銀色で、今が一番高い所です。けれども・・・ 宮沢賢治 「蛙のゴム靴」
・・・そのかわりほんとうに一生けん命かけてる最中に気象台へ通りかかるときはうれしいねえ、風力計をまるでのぼせるくらいにまわしてピーッとかけぬけるだろう、胸もすっとなるんだ。面白かったねえ、一昨年だったけれど六月ころ僕丁度上海に居たんだ。昼の間には・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・ そしてすっと開きから出て行った。 又、彼女は、食事の前後以外には、どんなに食事部屋でがたがた物を動す音がしても、決して自分の部屋から出ないと云う主義を持っていた。 彼女の部屋の硝子から、此方に著たきりの派手な羽織のこんもりと小・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・「降りるさわぎのとき、とられたのかもしれない。すっと引っぱって、とるんですて」「まア! わたし帰れないわ、どうしましょう。届けたって、出ないでしょうね!」「出ますまいねえ」 縋りつくようにきかれた男は、苦笑ときの毒さとを交ぜ・・・ 宮本百合子 「一刻」
・・・ すっと教室へ入って来て、生徒の一人である乾物屋の娘に何か書いたものを渡した。こちらからその光景を眺め、受持の先生も、家へかえれば主婦なのだからそのかんで、ハハア玉子のことでもたのんでいるな、と察した。乾物屋の娘はもとその先生に習った子・・・ 宮本百合子 「「うどんくい」」
出典:青空文庫