・・・ 蓋付きの茶碗二個。皿一枚。ワッパ一箇。箸一ぜん。――それだけ入っている食器箱。フキン一枚。土瓶。湯呑茶碗一個。 黒い漆塗の便器。洗面器。清水桶。排水桶。ヒシャク一個。 縁のない畳一枚。玩具のような足の低い蚊帳。 それに番号・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・そういう中で、わたしの好きな薫だけは残った。わたしの家の庭で見せたいものは、と言ったところで、ほんとに猫の額ほどしかないような狭いところに僅かの草木があるに過ぎないが、でもこの支那の蘭の花のさかりだけは見せたい。薫は、春咲く蘭に対して、秋蘭・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・ある社で計画した今度の新しい叢書は著作者の顔触れも広く取り入れてあるもので、その中には私の先輩の名も見え、私の友だちの名も見えるが、菊版三段組み、六号活字、総振り仮名付きで、一冊三四百ぺージもあるものを思い切った安い定価で予約応募者にわかと・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・その歩き付きを見る。その靴や着物の値ぶみをする。それをみな心配げな、真率な、忙しく右左へ動く目でするのである。顔は鋭い空気に晒されて、少なくも六十年を経ている。骨折沢山の生涯のために流した毒々しい汗で腐蝕せられて、褐色になっている。この顔は・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・ギンは、ようやく口をきいて、「私はあなたが大好きです。どうか私の家の人になって下さい。」とたのみました。しかし女の人はよういに聞き入れてくれませんでした。ギンは言葉をつくして、いくども/\たのみました。すると湖水の女はしまいにやっと承知・・・ 鈴木三重吉 「湖水の女」
・・・そして歩き付きが意気だわ。お前さんまだあの人の上沓を穿いて歩くとこは見たことがないでしょう。御覧よ。こうして歩くのだわ。それからおこるとね、こんな風に足踏をしてよ。「なんという下女だい。いつまで立っても珈琲の・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・考えて見るとわたしはお前さんの好きな色の着物ばかり着せられている。お前さんの好きな作者の書いた小説ばかり読ませられている。お前さんの好きなお数ばかり喰べさせられている。お前さんの好きな飲みものばかり飲ませられている。わたしはこんな風にチョコ・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・何をするにでも、プラタプは仲間のあるのが好きでした。釣をしている時には、口を利かない友達に越したものはありません。プラタプは、スバーが黙っているので、大事にしました。そして、皆は彼女をスバーと呼ぶ代りに、自分丈はスと呼んで、親しい心持を表し・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
兄妹、五人あって、みんなロマンスが好きだった。長男は二十九歳。法学士である。ひとに接するとき、少し尊大ぶる悪癖があるけれども、これは彼自身の弱さを庇う鬼の面であって、まことは弱く、とても優しい。弟妹たちと映画を見にいって、これは駄作だ・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・老大家のような落ち付きを真似して、静かに酒を飲んでいたのであるが、酔って来たら、からきし駄目になった。 与太者らしい二人の客を相手にして、「愛とは、何だ。わかるか? 愛とは、義務の遂行である。悲しいね。またいう、愛とは、道徳の固守である・・・ 太宰治 「作家の像」
出典:青空文庫