・・・ 保吉 ええ、震災のずっと前です。……一しょに音楽会へ出かけることもある。銀座通りを散歩することもある。あるいはまた西洋間の電燈の下に無言の微笑ばかり交わすこともある。女主人公はこの西洋間を「わたしたちの巣」と名づけている。壁にはルノア・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・そこからずっとマッカリヌプリという山の麓にかけて農場は拡がっているのだ。なだらかに高低のある畑地の向こうにマッカリヌプリの規則正しい山の姿が寒々と一つ聳えて、その頂きに近い西の面だけが、かすかに日の光を照りかえして赤ずんでいた。いつの間にか・・・ 有島武郎 「親子」
ずっと早く、まだ外が薄明るくもならないうちに、内じゅうが起きて明りを附けた。窓の外は、まだ青い夜の霧が立ち籠めている。その霧に、そろそろ近くなって来る朝の灰色の光が雑って来る。寒い。体じゅうが微かに顫える。目がいらいらする。無理に早く・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・しかし羨ましいね君の今のやり方は、実はずっと前からのおれの理想だよ。もう三年からになる。B そうだろう。おれはどうも初め思いたった時、君のやりそうなこったと思った。A 今でもやりたいと思ってる。たった一月でも可い。B どうだ、お・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・「ええ、ええ、ごもっとも、お目に掛ったのは震災ずっと前でござんすもの。こっちは、商売、慾張ってますから、両三度だけれど覚えていますわ。お分りにならない筈……」 と無雑作な中腰で、廊下に、斜に向合った。「吉原の小浜屋が、焼出された・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・母はずっと省作にすり寄って、「省作、そりゃおまえほんとかい。それではお前、あんまり我儘というもんだど。おッ母さんはただあの事が深田へ知れては、お前も居づらいはずだと思うたに、今の話ではお前の方から厭になったというのだね。それではおまえど・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・定木で引いた線のような軌道がずっと遠くまで光って走っていて、その先は地平線のあたりで、一つになって見える。左の方の、黄いろみ掛かった畑を隔てて村が見える。停車場には、その村の名が付いているのである。右の方には砂地に草の生えた原が、眠たそうに・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・ しかし、受け持ちの先生のいったことは、かならずしも正しくなかったことは、ずっと後になってから、吉雄が有名なすぐれた学者になったのでわかりました。 小川未明 「ある日の先生と子供」
・・・男の方がずっと小柄で、ずっと若く見え、湯殿のときとちがって黒縁のロイド眼鏡を掛けているため、一層こぢんまりした感じが出ていた。顔の造作も貧弱だったが、唇だけが不自然に大きかった。これは女も同じだった。女の唇はおまけに著しく歪んでいた。それに・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・寛畝さんのものはわりによく模ねてあると思いますが、真物はまだまだずっと筆に勁烈なところがあります。私もじつはせめて二三本もいいものがあると、信用のできる書画屋の方へも紹介しようと思ったんですがね、これではしようがありませんね。やはりお持ち帰・・・ 葛西善蔵 「贋物」
出典:青空文庫