・・・『今戸心中』が明治文壇の傑作として永く記憶せられているのは、篇中の人物の性格と情緒とが余す所なく精細に叙述せられているのみならず、また妓楼全体の生活が渾然として一幅の風俗画をなしているからである。篇中の事件は酉の市の前後から説き起されて・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・また有楽座に開演せられる翻訳劇の観客に対しては特に精細なる注意をなした。わたしは漸くにして現代の婦人の操履についてやや知る事を得たような心持になった。それと共にわたしはいよいよわが制作の困難なることを知ったのである。およそ芸術の制作には観察・・・ 永井荷風 「十日の菊」
・・・社会の制裁が弛んだというかも知れませんが一方からいいましたならば、事実にそういう欠点のあり得る事を二元的に認めて、これに寛容的の態度を示したのであります。畢竟無理がなくなり、概念の束縛がなくなり、事実が現われたのであります。昔スパルタの教育・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
・・・「しかしそれだけじゃないのだからな。精細なる会計報告が済むと、今度は翌日の御菜について綿密な指揮を仰ぐのだから弱る」「見計らって調理えろと云えば好いじゃないか」「ところが当人見計らうだけに、御菜に関して明瞭なる観念がないのだから・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・その知識の詳密精細なる事はまた格別なもので、向って左のどの辺に誰がいて、その反対の側に誰の席があるなどと、まるで露西亜へ昨日行って見て来たように、例のむずかしい何々スキーなどと云う名前がいくつも出た。しかし不思議にもこの談話は、物知りぶった・・・ 夏目漱石 「長谷川君と余」
・・・いわゆる詰腹で、社会の制裁が非常に悪辣苛酷なため生きて人に顔が合わされないからむやみに安く命を棄てるのでしょう。 今の人から見れば、完全かも知れないが実際あるかないか分らない理想的人物を描いて、それらの偶像に向って瞬間の絶間なく努力し感・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
・・・ 吾人は今申す通り我に対する物を空間に放射して、分化作用でこれを精細に区別して行きます。同時に我に対してもまた同様の分化作用を発展させて、身体と精神とを区別する。その精神作用を知、情、意、の三に区別します。それからこの知を割り、情を割り・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・女というものは眼中に置かないで、強い男が自分の権利を振り廻すために自分の便利を計るために、一種の制裁なり法則というものを拵えて、弱い女を無視してそれを鉄窓の中に押し込めたのが今日までの道徳というものであるといっている。それでイブセンの道徳と・・・ 夏目漱石 「模倣と独立」
・・・塔中四辺の風致景物を今少し精細に写す方が読者に塔その物を紹介してその地を踏ましむる思いを自然に引き起させる上において必要な条件とは気がついているが、何分かかる文を草する目的で遊覧した訳ではないし、かつ年月が経過しているから判然たる景色が・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・とこんな風に、私にもそれがどっちだか分らずに、この妙な思い出は益々濃厚に精細に、私の一部に彫りつけられる。然しだ、私は言い訳をするんじゃないが、世の中には迚も筆では書けないような不思議なことが、筆で書けることよりも、余っ程多いもんだ。たとえ・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
出典:青空文庫