・・・しかしちょうど月光のようにこの男を、――この男の正体を見る見る明らかにする一ことだった。常子は息を呑んだまま、しばらくは声を失ったように男の顔を見つめつづけた。男は髭を伸ばした上、別人のように窶れている。が、彼女を見ている瞳は確かに待ちに待・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・殊に「御言葉の御聖徳により、ぱんと酒の色形は変らずといえども、その正体はおん主の御血肉となり変る」尊いさがらめんとを信じている。おぎんの心は両親のように、熱風に吹かれた沙漠ではない。素朴な野薔薇の花を交えた、実りの豊かな麦畠である。おぎんは・・・ 芥川竜之介 「おぎん」
・・・「ああ、日帰りでやって来たよ。生体解剖の話や何かして行ったっけ。」「不愉快なやつだね。」「どうして?」「どうしてってこともないけれども。……」 僕等は夕飯をすませた後、ちょうど風の落ちたのを幸い、海岸へ散歩に出かけること・・・ 芥川竜之介 「彼」
・・・「まだ君には言わなかったかしら、僕が声帯を調べて貰った話は?」「上海でかい?」「いや、ロンドンへ帰った時に。――僕は声帯を調べて貰ったら、世界的なバリトオンだったんだよ。」 彼は僕の顔を覗きこむようにし、何か皮肉に微笑してい・・・ 芥川竜之介 「彼 第二」
・・・ お蓮はそう尋ねながら、相手の正体を直覚していた。そうしてこの根の抜けた丸髷に、小紋の羽織の袖を合せた、どこか影の薄い女の顔へ、じっと眼を注いでいた。「私は――」 女はちょいとためらった後、やはり俯向き勝に話し続けた。「私は・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・中やすみの風が変って、火先が井戸端から舐めはじめた、てっきり放火の正体だ。見逃してやったが最後、直ぐに番町は黒焦さね。私が一番生捕って、御覧じろ、火事の卵を硝子の中へ泳がせて、追付け金魚の看板をお目に懸ける。……」「まったく、懸念無量じ・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・その待女郎の目が、一つ、黄色に照って、縦にきらきらと天井の暗さに光る、と見つつ、且つその俎の女の正体をお誓に言うのに、一度、気を取られて、見直した時、ふと、もうその目の玉の縦に切れたのが消えていた。 斑はんみょうだ。斑が留っていた。・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・震災後も引続き、黒塀の奥深く、竹も樹も静まり返って客を受けたが、近代のある世態では、篝火船の白魚より、舶来の塩鰯が幅をする。正月飾りに、魚河岸に三個よりなかったという二尺六寸の海老を、緋縅の鎧のごとく、黒松の樽に縅した一騎駈の商売では軍が危・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・と、おくれ馳せながら、正体見たり枯尾花流に――続いて説明に及ぶと、澄んで沈んだ真顔になって、鹿落の旅館の、その三つ並んだ真中の厠は、取壊して今はない筈だ、と言って、先手に、もう知っている。…… はてな、そういえば、朝また、ようをたした時・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・普及に勉めたに相違あるまい、栽培宜しきを得れば必ず菓園に美菓を得る如く、以上の如き美風に依て養われたる民族が、遂に世界に優越せるも決して偶然でないように思われる、欧洲の今日あるはと云わば、人は必ず政体を云々し宗教を云々し学問を云々す、然・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
出典:青空文庫