・・・魚が来てカカリへ啣え込んだのか、大芥が持って行ったのか、もとより見ぬ物の正体は分りませんが、吉はまた一つ此処で黒星がついて、しかも竿が駄目になったのを見逃しはしませんで、一層心中は暗くなりました。こういうこともない例ではありませんが、飽まで・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・食色の慾が足り、少しの閑暇があり、利益や権力の慾火は断えず燃ゆるにしてもそれが世態漸く安固ならんとする傾を示して来て、そうむやみに修羅心に任せてもがきまわることも無効ならんとする勢の見ゆる時において、どうして趣味の慾が頭を擡げずにいよう。い・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・だから頼りになりそうな山崎のお母さんと話し込むと、正体がないほど弱くなってしまうの。 窪田が二十日程して釈放された。すると、直ぐ家へやって来てこんなに大衆的にやられている時に、遺族のものたちをバラ/\にして置いては悪いと云うので、即・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・その場合に、醜いものだけを正体として信じ、美しい願望も人間には在るという事を忘れているのは、間違いであります。念々と動く心の像は、すべて「事実」として存在はしても、けれども、それを「真実」として指摘するのは、間違いなのであります。真実は、常・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・私は子供のような好奇心でもって、その小鳥の正体を一目見たいと思いました。立ちどまって首をかしげ、樹々の梢をすかして見ました。ああ、私はつまらないことを言っています。ごめん下さい。旦那さま、お仕度は出来ましたか。ああ楽しい。いい気持。今夜は私・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・物音の正体を見とどけて、二人は顔を見合せ、それからほのぼの笑った。こんないい思い出を持ったこの夫婦は、末永くきっとうまくいくだろう。かならず、よい家を創始するにちがいない。 私がこれから物語ろうと思ういきさつの男女も、このような微笑の初・・・ 太宰治 「花燭」
・・・それで課長殿が窓際へ行って信号の出処を見届けようとしても、光束が眼を外れると鏡は見えなくなり、眼に当れば眩惑されるので、もしも相手が身体を物蔭に隠して頭と手先だけ出してでもいればなかなか容易に正体を見届けることは困難であろうと想像される。そ・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・では火の玉の正体を現わし、『武道伝来記』の一と三では鹿嶋の神託の嘘八百を笑っている。 この迷信を笑う西鶴の態度は翻って色々の暴露記事となるのは当然の成行きであろう。例えば『諸国咄』では義経やその従者の悪口棚卸しに人の臍を撚り、『一代女』・・・ 寺田寅彦 「西鶴と科学」
・・・アマチュア昆虫生態学者にとっては好個のテーマになりはしないかという気がしたのであった。 とんぼがいかにして風の方向を知覚し、いかにしてそれに対して一定の姿勢をとるかということがまた単に生物学者生理学者のみならず、物理学者工学者にまでもい・・・ 寺田寅彦 「三斜晶系」
・・・……私には牛肉を食っていながら生体解剖に反対している人たちの心持ちがわからなかった。……人間の平等を論じる人たちがその平等を猿や蝙蝠以下におしひろめない理由がはっきりわからなかった。……普通選挙を主張している友人に、なぜ家畜にも同じ権利を認・・・ 寺田寅彦 「芝刈り」
出典:青空文庫