・・・「聖母子」私は、其の実相を、いまやっと知らされた。たしかに、無上のものである。ダヴィンチは、ばかな一こくの辛酸を嘗めて、ジョコンダを完成させたが、むざん、神品ではなかった。神と争った罰である。魔品が、できちゃった。ミケランジェロは、卑屈な泣・・・ 太宰治 「俗天使」
・・・電気を、つけてはいけない。聖母を、あかるみに引き出すな! 男は、また蒲団にもぐり込んだ様子だ。そうして、しばらく、二人は黙っている。 男は、やがて低く口笛を吹いた。戦争中にはやった少年航空兵の歌曲のようであった。 女は、ぽつんと・・・ 太宰治 「母」
人物。野中弥一 国民学校教師、三十六歳。節子 その妻、三十一歳。しづ 節子の生母、五十四歳。奥田義雄 国民学校教師、野中の宅に同居す、二十八歳。菊代 義雄の妹、二十三歳。その他 ・・・ 太宰治 「春の枯葉」
・・・僕は、断じて肉体万能論者ではない。バザロフなんて、甘いものさ。精神が、信仰が、人間の万事を決する。僕は、聖母受胎をさえ、そのまま素直に信じている。そのために、科学者としての僕が、破産したって、かまわない。僕は、純粋の人間、真正の人間で在りさ・・・ 太宰治 「火の鳥」
木枯らしの夜おそく神保町を歩いていたら、版画と額縁を並べた露店の片すみに立てかけた一枚の彩色石版が目についた。青衣の西洋少女が合掌して上目に聖母像を見守る半身像である。これを見ると同時にある古いなつかしい記憶が一時に火をつ・・・ 寺田寅彦 「青衣童女像」
・・・首飾りに聖母の像のついたメダルを三つも下げている。 昼ごろサイゴンの沖を通る。四月十日 朝十時の奏楽のときに西村氏がそばへ来て楽隊のスケッチをしていた。ボーイがリモナーデを持って来たのを寝台の肱掛けの穴へはめようとしたら、穴が大・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・これは Stabat mater の一節だというから、いずれ十字架の下に立った聖母の悲痛を現わしたものであろう。私はこれをひいていると、歌の文句は何も知らないのにかかわらず、いつも名状の出来ないような敬虔と哀愁の心持が胸に充ちるのを覚える。・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・ ドイツの冬夜の追憶についてはもう前に少しばかり書いたような気がするが、今この瞬間に突然想い出したのはゲッチンゲンの歳暮のある夜のことである。雪が降り出して夜中には相当積もった。明りを消して寝ようとしていると窓外に馬の蹄の音とシャン/\・・・ 寺田寅彦 「追憶の冬夜」
・・・気象台の測器検定室の一隅には聖母像を祭ってあって、それにあかあかとお燈明が上がっていた。イサーク寺では僧正の法衣の裾に接吻する善男善女の群れを見、十字架上の耶蘇の寝像のガラスぶたには多くのくちびるのあとが歴然と印録されていた。 通例日本・・・ 寺田寅彦 「北氷洋の氷の割れる音」
・・・高等学校の横を廻る時に振返ってみると本郷通りの夜は黄色い光に包まれて、その底に歳暮の世界が動揺している。弥生町へ一歩踏込むと急に真暗で何も見えぬ。この闇の中を夢のように歩いていると、暗い中に今夜見た光景が幻影となって浮き出る。まじょりかの帆・・・ 寺田寅彦 「まじょりか皿」
出典:青空文庫