・・・判に頂戴し、将門が乱を起しても護摩を焚いて祈り伏せるつもりでいた位であるし、感情の絃は蜘蛛の糸ほどに細くなっていたので、あらゆる妄信にへばりついて、そして虚礼と文飾と淫乱とに辛くも活きていたのである。生霊、死霊、のろい、陰陽師の術、巫覡の言・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・弟の子供達を悦ばせるような沢山な蜻蛉が秋の空気の中を飛んでいた。熊吉が姉を連れて行って見せたところは、直次の家から半町ほどしか離れていないある小間物屋の二階座敷で、熊吉は自分用の仮の仕事場に一時そこを借りていた。そこから食事の時や寝る時に直・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ 秋になると、蜻蛉も、ひ弱く、肉体は死んで、精神だけがふらふら飛んでいる様子を指して言っている言葉らしい。蜻蛉のからだが、秋の日ざしに、透きとおって見える。 秋ハ夏ノ焼ケ残リサ。と書いてある。焦土である。 夏ハ、シャンデリヤ。秋・・・ 太宰治 「ア、秋」
・・・あるいは、聖霊の息吹きを受けて、つめたい花びらをいちまい胸の中に宿したような気持ち。日本も、けさから、ちがう日本になったのだ。 隣室の主人にお知らせしようと思い、あなた、と言いかけると直ぐに、「知ってるよ。知ってるよ。」 と答え・・・ 太宰治 「十二月八日」
・・・平凡な日々の業務に精励するという事こそ最も高尚な精神生活かも知れない。などと少しずつ自分の日々の暮しにプライドを持ちはじめて、その頃ちょうど円貨の切り換えがあり、こんな片田舎の三等郵便局でも、いやいや、小さい郵便局ほど人手不足でかえって、て・・・ 太宰治 「トカトントン」
・・・べら棒に高くて、あたら無数の宝物、お役所の、青ペンキで塗りつぶされたるトタン屋根の倉庫へ、どさんとほうり込まれて、ぴしゃんと錠をおろされて、それっきり、以来、十箇月、桜の花吹雪より藪蚊を経て、しおから蜻蛉、紅葉も散り、ひとびと黒いマント着て・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・ 子供の時分に蜻蛉を捕るのに、細い糸の両端に豌豆大の小石を結び、それをひょいと空中へ投げ上げると、蜻蛉はその小石を多分餌だと思って追っかけて来る。すると糸がうまい工合に虫のからだに巻き付いて、そうして石の重みで落下して来る。あれも参考に・・・ 寺田寅彦 「烏瓜の花と蛾」
・・・そこには蒲や菱が叢生し、そうしてわれわれが「蝶々蜻蛉」と名付けていた珍しい蜻蛉が沢山に飛んでいた。このとんぼはその当時でも他処ではあまり見たことがなく、その後他国ではどこでも見なかった種類のものである。この濠はあまり人の行かないところであっ・・・ 寺田寅彦 「郷土的味覚」
・・・大地震が襲来して数万の生霊が消散した後にその地震が当然来るはずであった事が論ぜられたりするのは事実である。 しかし必ずしもそうではないようである。学者がその仕事を「仕上げる」には長い月日を要するのは普通であるが、仕事をつかまえ、「仕留め・・・ 寺田寅彦 「空想日録」
・・・で思い出すのはベルリンに住んではじめての聖霊降臨祭の日に近所の家々の入口の軒に白樺の折枝を挿すのを見て、不思議なことだと思って二、三の人に聞いてみたが、どうした由来によるものか分らなかった。ただ何となく軒端に菖蒲を葺いた郷国の古俗を想い浮べ・・・ 寺田寅彦 「五月の唯物観」
出典:青空文庫