・・・た僻地で……以前は、里からではようやく木樵が通いますくらい、まるで人跡絶えたといった交通の不便な処でございましてな、地図をちょっと御覧なすっても分りますが、絶所、悪路の記号という、あのパチパチッとした線香花火が、つい頭の上の山々を飛び廻って・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・ 姉がまず水をそそいで、皆がつぎつぎとそそぐ。線香と花とを五つに分けて母の石塔にまで捧げた。姉夫婦も無言である、予も無言である。「お父さんわたいお祖父さん知ってるよ、腰のまがった人ねい」「一昨年お祖父さんが家へきたときに、大きい・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・枕上に経机を据え、線香を立てた。奈々子は死に顔美しく真に眠ってるようである。線香を立てて死人扱いをするのがかあいそうでならないけれど、線香を立てないのも無情のように思われて、線香は立てた。それでも燈明を上げたらという親戚の助言は聞かなかった・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・水を持ち、線香を持ち、庭の花を沢山に採る。小田巻草千日草天竺牡丹と各々手にとり別けて出かける。柿の木の下から背戸へ抜け槇屏の裏門を出ると松林である。桃畑梨畑の間をゆくと僅の田がある。その先の松林の片隅に雑木の森があって数多の墓が見える。戸村・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・線の太い歴史物よりは『南柯夢』や『旬殿実々記』のような心中物に細かい繊巧な技術を示しておる。『八犬伝』でも浜路や雛衣の口説が称讃されてるのは強ち文章のためばかりではない。が、戦記となるとまるで成っていない。ヘタな修羅場読と同様ただ道具立を列・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
名も知らない草に咲く、一茎の花は、無条件に美しいものである。日の光りに照らされて、鮮紅に、心臓のごとく戦くのを見ても、また微風に吹かれて、羞らうごとく揺らぐのを見ても、かぎりない、美しさがその中に見出されるであろう。 思うに、見出・・・ 小川未明 「名もなき草」
・・・お光はその前に坐って、影も薄そうなションボリした姿で、線香の煙の細々と立ち上るのをじっと眺めているところへ、若衆の為さんが湯から帰って来た。「お上さん、お寂しゅうがしょうね。私にもどうかお線香を上げさしておくんなさい」 お光は黙って・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・蜘蛛の眼がキラキラ閃光を放って、じっとこちらを見ているように思った。夜なかに咳が出て閉口した。 翌朝眼がさめると、白い川の眺めがいきなり眼の前に展けていた。いつの間にか雨戸は明けはなたれていて、部屋のなかが急に軽い。山の朝の空気だ。それ・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・そこは献納提灯がいくつも掛っていて、灯明の灯が揺れ、線香の火が瞬き、やはり明るかったが、しかし、ふと暗い隅が残っていたりして、道頓堀の明るさと違います。浜子は不動明王の前へ灯明をあげて、何やら訳のわからぬ言葉を妙な節まわしで唱えていたかと思・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ 祈る女の前に賽銭箱、頭の上に奉納提灯、そして線香のにおいが愚かな女の心を、女の顔を安らかにする。 そこで、ほっと一安心して、さて「めをとぜんざい」でも、食べまひょか。 大阪の人々の食意地の汚なさは、何ごとにも比しがたい。いまは・・・ 織田作之助 「大阪発見」
出典:青空文庫