・・・売っている品は言わずもがなで、食ってる人は大概船頭船方の類にきまっている。鯛や比良目や海鰻や章魚が、そこらに投げ出してある。なまぐさい臭いが人々の立ち騒ぐ袖や裾にあおられて鼻を打つ。『僕は全くの旅客でこの土地には縁もゆかりもない身だから・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・彼らは自ら手を下さず、市井の頭目を語らって、群衆を煽動せしめたのであった。 日蓮は一時難を避けて、下総中山の帰衣者富木氏の邸にあって、法華経を説いていた。 六 相つぐ法難 日蓮の闘志はひるまなかった。百日の後彼は・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・だいぶほかの者を煽動したらしいんであります。」中尉は防寒帽をかむりなおしながら答えた。「どうもシベリアへ来ると兵タイまでが過激化して困ります。」「何中隊の兵タイだ。」「×中隊であります。」 眼鼻の線の見さかいがつくようになると、・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・遠いところから段と歩み近づいて行くと段と人顔が分って来るように、朦朧たる船頭の顔は段と分って来た。膝ッ節も肘もムキ出しになっている絆纏みたようなものを着て、極小さな笠を冠って、やや仰いでいる様子は何ともいえない無邪気なもので、寒山か拾得の叔・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・神田川の方に船宿があって、日取り即ち約束の日には船頭が本所側の方に舟を持って来ているから、其処からその舟に乗って、そうして釣に出て行く。帰る時も舟から直に本所側に上って、自分の屋敷へ行く、まことに都合好くなっておりました。そして潮の好い時に・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・まして火の中へ隠れてしまう魔法を知って居る犬山道節だの、他人の愛情や勇力を受けついでくれる寧王女のようなそんな人は、どう致しまして有るわけのものではありません。それでは馬琴が描いた小説中の人物は当時の実社会とはまるで交渉が無いかというと、前・・・ 幸田露伴 「馬琴の小説とその当時の実社会」
・・・一年あまりも心の暗い旅をつづけて、諸国の町々や、港や、海岸や、それから知らない山道などを草臥れるほど歩き廻った足だ。貧しい母を養おうとして、僅かな銭取のために毎日二里ほどずつも東京の市街の中を歩いて通ったこともある足だ。兄や叔父の入った未決・・・ 島崎藤村 「足袋」
・・・勇敢な高橋事務員は、その中へ決然一人でとびこんで、ようやく、向うの岸にひなんしていた船にたどりつき、船頭たちに、患者をはこんでくれるようにと、こんこんとたのみましたが、船頭はいやがって、がんとしておうじてくれません。すると幸い、だれも人のい・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・やがて二人で大立廻りをやって、女房は髪を乱して向いの船頭の家へ逃げこむやら、とうと面倒なことになったが、とにかく船頭が仲裁して、お前たちも、元を尋ねると踊りの晩に袖を引き合いからの夫妻じゃないか。さあ、仲直りに二人で踊れよおい、と五合ばかり・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・構えのうちにある小屋でも稲叢でも、皆川を過ぎて行く船頭の処から見えました。此、金持らしい有様の中で、仕事がすむとそおっと川の汀に出かけ、其処に座る、一人の小さい娘のいるのに、気が附いた者があったでしょうか? 私は知りません。けれども、此処で・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
出典:青空文庫