・・・同じ作者の『湊の花』には、思う人に捨てられた女が堀割に沿うた貧家の一間に世をしのび、雪のふる日にも炭がなく、唯涙にくれている時、見知り顔の船頭が猪牙舟を漕いで通るのを、窓の障子の破れ目から見て、それを呼留め、炭を貰うというようなところがあっ・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・って先日の御娘さんだったらやはりすぐさま馳け出されるかどうだかの問題はいざとならなければ解釈がつかないから質問しない方がいいとして先へ進む、さて両君はこの辺の地理不案内なりとの口実をもって覚束なき余に先導たるべしとの厳命を伝えた、しかるに案・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・ただ一人の船頭が艫に立って艪を漕ぐ、これもほとんど動かない。塔橋の欄干のあたりには白き影がちらちらする、大方鴎であろう。見渡したところすべての物が静かである。物憂げに見える、眠っている、皆過去の感じである。そうしてその中に冷然と二十世紀を軽・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・それは見晴しの好い峠の山道を、ひとりでゆっくり歩きたかったからであった。道は軌道に沿いながら、林の中の不規則な小径を通った。所々に秋草の花が咲き、赫土の肌が光り、伐られた樹木が横たわっていた。私は空に浮んだ雲を見ながら、この地方の山中に伝説・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ 浚渫船の胴っ腹にくっついていた胴船の、船頭夫婦が、デッキの上で、朝飯を食っているのが見えた。運転手と火夫とが、船頭に何か冗談を云って、朗かに笑った。 私は静に立ち上った。 そして橋の手すりに肘をついて浚渫船をボンヤリ眺めた。・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・聯想は段々広がって、舟は中流へ出る、船頭が船歌を歌う。老爺生長在江辺、不愛交遊只愛銭、と歌い出した。昨夜華光来趁我、臨行奪下一金磚、と歌いきって櫓を放した。それから船頭が、板刀麺が喰いたいか、飩が喰いたいか、などと分らぬことをいうて宋江を嚇・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・三文文士がこの字で幼稚な読者をごまかし、説教壇からこの字を叫んで戦争を煽動し、最も軽薄な愛人たちが、彼等のさまざまなモメントに、愛を囁いて、一人一人男や女をだましています。 愛という字は、こんなきたならしい扱いをうけていていいでしょうか・・・ 宮本百合子 「愛」
一 陽子が見つけて貰った貸間は、ふき子の家から大通りへ出て、三町ばかり離れていた。どこの海浜にでも、そこが少し有名な場所なら必ずつきものの、船頭の古手が別荘番の傍部屋貸をする、その一つであった。 ・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・が、渡辺氏は、そういう理論づけを我からつきくずして、まるでその口元が目にみえるような煽動の語調で、一言一言ゆっくりと、ソヴェトの社会主義なんかは「インチキ」といわれました。どんな客観的理由も説明せず、三十年間の社会主義社会建設の歴史をもって・・・ 宮本百合子 「新しい抵抗について」
・・・軍部の煽動にのって若い女性が、明日にかくされている生活の破滅に向ってヒロイズムでごまかされないように、戦争的美名にかくされた資本主義の搾取の現実を見とおすように、荒くれたかぶった世間の気風のうちに、ひとすじの人間らしさと、その発展のための努・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第十五巻)」
出典:青空文庫