・・・が、棟梁、お前さんの靴は仁王様の草鞋も同じなんだから」と頭を下げて頼んだと言うことです。けれども勿論半之丞は元値にも買うことは、出来なかったのでしょう。この町の人々には誰に聞いて見ても、半之丞の靴をはいているのは一度も見かけなかったと言って・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・適度に感ずる時は爽快であり、且又健康を保つ上には何びとにも絶対に必要である。 ユウトピア 完全なるユウトピアの生れない所以は大体下の通りである。――人間性そのものを変えないとすれば、完全なるユウトピアの生まれる筈はない。・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・貧家に人となった尊徳は昼は農作の手伝いをしたり、夜は草鞋を造ったり、大人のように働きながら、健気にも独学をつづけて行ったらしい。これはあらゆる立志譚のように――と云うのはあらゆる通俗小説のように、感激を与え易い物語である。実際又十五歳に足ら・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・小作人たちはあわてて立ち上がるなり、草鞋のままの足を炉ばたから抜いて土間に下り立つと、うやうやしく彼に向かって腰を曲げた。「若い且那、今度はまあ御苦労様でございます」 その中で物慣れたらしい半白の丈けの高いのが、一同に代わってのよう・・・ 有島武郎 「親子」
・・・とげとげする触感が、寝る時のほか脱いだ事のない草鞋の底に二足三足感じられたと思うと、四足目は軟いむっちりした肉体を踏みつけた。彼れは思わずその足の力をぬこうとしたが、同時に狂暴な衝動に駈られて、満身の重みをそれに托した。「痛い」 そ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・予はただこの自由と活動の小樽に来て、目に強烈な活動の海の色を見、耳に壮快なる活動の進行曲を聞いて、心のままに筆を動かせば満足なのである。世界貿易の中心点が太平洋に移ってきて、かつて戈を交えた日露両国の商業的関係が、日本海を斜めに小樽対ウラジ・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・ 祖母は、その日もおなじほどの炎天を、草鞋穿で、松任という、三里隔った町まで、父が存生の時に工賃の貸がある骨董屋へ、勘定を取りに行ったのであった。 七十の老が、往復六里。……骨董屋は疾に夜遁げをしたとやらで、何の効もなく、日暮方に帰・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・は、いつも、窓にも縁にも一杯の、川向うの山ばかりか、我が家の町も、門も、欄干も、襖も、居る畳も、ああああ我が影も、朦朧と見えなくなって、国中、町中にただ一条、その桃の古小路ばかりが、漫々として波の静な蒼海に、船脚を曳いたように見える。見えつ・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・ その夜はやがて、砂白く、崖蒼き、玲瓏たる江見の月に、奴が号外、悲しげに浦を駈け廻って、蒼海の浪ぞ荒かりける。明治三十九年年一月 泉鏡花 「海異記」
・・・またこの路地裏の道具屋が、私の、東京ではじめて草鞋を脱いだ場所で、泊めてもらった。しかもその日、晩飯を食わせられる時、道具屋が、めじの刺身を一臠箸で挟んで、鼻のさきへぶらさげて、東京じゃ、これが一皿、じゃあない、一臠、若干金につく。……お前・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
出典:青空文庫