・・・ 碧水金砂、昼の趣とは違って、霊山ヶ崎の突端と小坪の浜でおしまわした遠浅は、暗黒の色を帯び、伊豆の七島も見ゆるという蒼海原は、ささ濁に濁って、果なくおっかぶさったように堆い水面は、おなじ色に空に連って居る。浪打際は綿をば束ねたような白い・・・ 泉鏡花 「星あかり」
・・・自分は日々朝草鞋をはいて立ち、夜まで脱ぐ遑がない。避難五日目にようやく牛の為に雨掩いができた。 眼前の迫害が無くなって、前途を考うることが多くなった。二十頭が分泌した乳量は半減した上に更に減ぜんとしている。一度減じた量は決して元に恢復せ・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・四方に聞ゆる水の音は、今の自分にはもはや壮快に聞えて来た。自分は四方を眺めながら、何とはなしに天神川の鉄橋を渡ったのである。 うず高に水を盛り上げてる天神川は、盛んに濁水を両岸に奔溢さしている。薄暗く曇った夕暮の底に、濁水の溢れ落つる白・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・人間も無事だ、牛も無事だ、よしといったような、爽快な気分で朝まで熟睡した。 家のが鳴く、家のが鳴く、という子供の声が耳に入って眼を覚した。起って窓外を見れば、濁水を一ぱいに湛えた、わが家の周囲の一廓に、ほのぼのと夜は明けておった。忘れら・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・私は古草鞋や古下駄の蹈返された土間に迷々していると、上さんがまた、「お上り。」「は。」と答えた機で、私はつと下駄を脱捨てて猿階子に取着こうとすると、「ああ穿物は持って上っておくれ。そこへ脱いどいて、失えても家じゃ知らんからね。」・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・という言葉を、お前は随分気に入って、全国支店長総会なんかで、やたらに振りまわしていたね。そんな時、お前は自分ひとりの力で、「今日ある」をもたらしたような口利いていたが、聴いていて、おれは心外……いや、おかしかった。なにが、お前ひとりの力で…・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・「おのれは、一つ目小僧に逢うて、腰を抜かし、手に草鞋をはいて歩くがええわい」「おのれこそ、婚礼の晩にテンカンを起して、顔に草鞋をのせて、泡を吹きよるわい」「おのれの姉は、元日に気が触れて、井戸の中で行水しよるわい」「おのれの・・・ 織田作之助 「猿飛佐助」
・・・せめて二三千円の金でも残ったら、こうした処へ引っこんで林檎畠の世話でもして、糞草鞋を履いて働いてもいいから暢気に暮したいものだと。……僕もあまり身体が丈夫でありませんからね。今でも例の肋膜が、冬になると少しその気が出るんですよ」 惣治も・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・ 私はこの記事を新聞で読んだとき、そぞろに爽快な戦慄を禁じることができなかった。 闇! そのなかではわれわれは何を見ることもできない。より深い暗黒が、いつも絶えない波動で刻々と周囲に迫って来る。こんななかでは思考することさえできない・・・ 梶井基次郎 「闇の絵巻」
・・・ この某町から我村落まで七里、もし車道をゆけば十三里の大迂廻になるので我々は中学校の寄宿舎から村落に帰る時、決して車に乗らず、夏と冬の定期休業ごとに必ず、この七里の途を草鞋がけで歩いたものである。 七里の途はただ山ばかり、坂あり、谷・・・ 国木田独歩 「画の悲み」
出典:青空文庫