・・・ ついでながら、自分のような門外漢がこの講座のこの特殊項目に筆を染めるという僣越をあえてするに至った因縁について一言しておきたいと思う。元来映画の芸術はまだ生まれてまもないものであってその可能性については、従来相当に多数な文献があるにも・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・ リストが音楽商の家の階段を気軽にかけ上がって、ピアノの譜面台の上に置き捨てられたショパンの作曲に眼をつけて、やがて次第に引入れられて弾き初める、そこへいったん失望して帰りかけたショパンがそっと這入って来て、リストと背中合せに同じ曲を弾・・・ 寺田寅彦 「映画雑感6[#「6」はローマ数字、1-13-26]」
・・・七月になりかかると、秋風が立ち初める、とギバの難は影を隠してしまう。武州常州あたりでもやはり四月から七月と言っている」。また晴天には現われず「晴れては曇り曇っては晴れる、村雲などが出たりはいったりする日に限って」現われるとある。また一日じゅ・・・ 寺田寅彦 「怪異考」
・・・右の腰部からまっ黒な血がどくどく流れ出して氷盤の上を染める。映画では黒いだけのこの血が実際にはいかに美しく物すごい紅色を氷海のただ中に染め出したことであろう。そのうちにまたいくつかの弾をくらったらしい。いくら逃げても追い駆けて来る体内の敵を・・・ 寺田寅彦 「空想日録」
・・・足をかわすたびにポクリ、ポクリと、足くびまでうずめる砂ほこりが、尻ばしょりしている毛ずねまで染める。暑い午下りの熱気で、ドキン、ドキンと耳鳴りしている自分を意識しながら歩いている。その眼路のはるかつきるまで、咽喉のひりつくような白くかわいた・・・ 徳永直 「白い道」
・・・ 何処へ行こうかと避暑の行先を思案している中、土用半には早くも秋風が立ち初める。蚊遣の烟になお更薄暗く思われる有明の灯影に、打水の乾かぬ小庭を眺め、隣の二階の三味線を簾越しに聴く心持……東京という町の生活を最も美しくさせるものは夏であろ・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・ わたくしは雪が降り初めると、今だに明治時代、電車も自動車もなかった頃の東京の町を思起すのである。東京の町に降る雪には、日本の中でも他処に見られぬ固有のものがあった。されば言うまでもなく、巴里や倫敦の町に降る雪とは全くちがった趣があった・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・その時この鳶色の奥にぽたりぽたりと鈍き光りが滴るように見え初める。三層四層五層共に瓦斯を点じたのである。余は桜の杖をついて下宿の方へ帰る。帰る時必ずカーライルと演説使いの話しを思いだす。かの溟濛たる瓦斯の霧に混ずる所が往時この村夫子の住んで・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・跛で結伽のできなかった大燈国師が臨終に、今日こそ、わが言う通りになれと満足でない足をみしりと折って鮮血が法衣を染めるにも頓着なく座禅のまま往生したのも一例であります。分化はいろいろできます。しかしその標準を云うとまず荘厳に対する情操と云うて・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・兄はまた読み初める。「朝ならば夜の前に死ぬと思え。夜ならば翌日ありと頼むな。覚悟をこそ尊べ。見苦しき死に様ぞ恥の極みなる……」弟また「アーメン」と云う。その声は顫えている。兄は静かに書をふせて、かの小さき窓の方へ歩みよりて外の面を見・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
出典:青空文庫