・・・ とうとう初夜の鐘が鳴った。それから二更の鐘が鳴った。二人は露に濡れながら、まだ寺のほとりを去らずにいた。 が、兵衛はいつまで経っても、ついに姿を現さなかった。 大団円 甚太夫主従は宿を変えて、さらに兵衛をつ・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・殊に黒い塗り箙へ、二十あまり征矢をさしたのは、ただ今でもはっきり覚えて居ります。 あの男がかようになろうとは、夢にも思わずに居りましたが、真に人間の命なぞは、如露亦如電に違いございません。やれやれ、何とも申しようのない、気の毒な事を致し・・・ 芥川竜之介 「藪の中」
・・・色の白い、眉の迫った、痩せぎすな若主人は、盆提灯へ火のはいった縁先のうす明りにかしこまって、かれこれ初夜も過ぎる頃まで、四方山の世間話をして行きました。その世間話の中へ挟みながら、「是非一度これは先生に聞いて頂きたいと思って居りましたが。」・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ 何処となく荒涼とした粗野な自由な感じ、それは生面の人を威脅するものではあるかも知れないけれども、住み慣れたものには捨て難い蠱惑だ。あすこに住まっていると自分というものがはっきりして来るかに思われる。艱難に対しての或る勇気が生れ出て来る・・・ 有島武郎 「北海道に就いての印象」
・・・追加の雪の題が、一つ増しただけ互選のおくれた初夜過ぎに、はじめて約束の酒となった。が、筆のついでに、座中の各自が、好、悪、その季節、花の名、声、人、鳥、虫などを書きしるして、揃った処で、一……何某……好なものは、美人。「遠慮は要らないよ・・・ 泉鏡花 「第二菎蒻本」
・・・懸っただぼ鯊を、鳥の毛の采配で釣ろうと構えて、ストンと外した玉屋の爺様が、餌箱を検べる体に、財布を覗いて鬱ぎ込む、歯磨屋の卓子の上に、お試用に掬出した粉が白く散って、売るものの鰌髯にも薄り霜を置く――初夜過ぎになると、その一時々々、大道店の・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・やや初夜過となりました。 山中の湯泉宿は、寂然として静り返り、遠くの方でざらりざらりと、湯女が湯殿を洗いながら、歌を唄うのが聞えまする。 この界隈近国の芸妓などに、ただこの湯女歌ばかりで呼びものになっているのがありますくらい。怠けた・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・民子は全くの田舎風ではあったが、決して粗野ではなかった。可憐で優しくてそうして品格もあった。厭味とか憎気とかいう所は爪の垢ほどもなかった。どう見ても野菊の風だった。 しばらくは黙っていたけれど、いつまで話もしないでいるはなおおかしい様に・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ 粗野で、そそっかしい風は、いつやむと見えぬまでに吹いて、吹いて吹き募りました。木の芽は、もはや目をまわして、いまにも倒れそうになったのであります。 このとき、太陽は、見るに見かねて、風をしかりました。「なんで、そんなに小さい木・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・それらには野趣があるし、又粗野な、時代に煩わされない本能や感情が現われているからそれでいいけれど、所謂その時代の上品な詩歌や、芸術というものは、今から見ると、別に深い生活に対する批評や考案があったものとも思われないものが多い。それは詩歌のみ・・・ 小川未明 「詩の精神は移動す」
出典:青空文庫