・・・ 武田さんはそれらの客にいちいち相手になったり、将棋盤を覗き込んだり、冗談を言ったり、自分からガヤガヤと賑かな雰囲気を作ってはしゃぎながら、新聞小説を書いていたが、原稿用紙の上へ戻るときの眼は、ぞっとするくらい鋭かった。 書き終って・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・六月、七月、八月――まことに今想い出してもぞっとする地獄の三月であった。私たちは、ひたすら外交手段による戦争終結を渇望していたのだ。しかし、その時期はいつだろうか。「昭和二十年八月二十日」という日を、まるで溺れるものが掴む藁のように、いや、・・・ 織田作之助 「終戦前後」
・・・ 兵卒は、老人の唸きが聞えるとぞっとした。彼等は、土をかきこんで、それを遮断しようがために、無茶苦茶にシャベルを動かした。 土は、穴を埋め、二尺も、三尺も厚く蔽いかぶせられ、ついに小山をつくった。…… 六 ・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・とやはり大声で答えて、それから、またじゃぶじゃぶ洗濯をつづけ、「酒好きの人は、酒屋の前を通ると、ぞっとするほど、いやな気がするもんでしょう? あれと同じじゃ。」と普通の声で言って、笑って居るらしく、少しいかっている肩がひくひく動いて居ま・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・学生時代にボートの選手をしていたひとは、五十六十になっても、ボートを見ると、なつかしいという気持よりは、ぞっとするものらしいが、しかし、また、それこそ我知らず、食い入るように見つめているもののようである。 早稲田界隈。 下宿生活。・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・私は、総身に冷水を浴びせられたように、ぞっとしました。「ごめん下さい。大谷さん」 こんどは、ちょっと鋭い語調でした。同時に、玄関のあく音がして、「大谷さん! いらっしゃるんでしょう?」 と、はっきり怒っている声で言うのが聞え・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・考えてもぞっとする話である。しかしそういう場合であっても、もしも入場していた市民がそのような危急の場合に対する充分な知識と訓練を持ち合わせていて、そうしてかねてから訓練を積んだ責任ある指揮者の指揮に従って合理的統整的行動を取ることができれば・・・ 寺田寅彦 「火事教育」
・・・そうしたものが自分の皮膚にとりついていると想像すればぞっとするのは当然かもしれない。 こんなふうに虫やそれに類したものに対する毛ぎらいはどうやら一応の説明がこじつけられそうな気がするが、人と人との間に感じる毛ぎらいやまたいわゆるなんとな・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・やけどと思って見るとぞっとするくらいであるがレッキスとして見れば実に美しい。 アフリカの蛮人でくちびるを鐃にょうばちのように変形させているのや、顔じゅう傷跡だらけにしているのがあるが、あれはどうもどう見ても美しいと思えない。あれでもやは・・・ 寺田寅彦 「藤棚の陰から」
・・・余が想像の糸をここまでたぐって来た時、室内の冷気が一度に背の毛穴から身の内に吹き込むような感じがして覚えずぞっとした。そう思って見ると何だか壁が湿っぽい。指先で撫でて見るとぬらりと露にすべる。指先を見ると真赤だ。壁の隅からぽたりぽたりと露の・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
出典:青空文庫