・・・寺の歴史やパリの歴史もおもしろいが、この太古の貝がらの歴史も私にはおもしろい。屋根のトタンにも石にも一面に名前や日付が刻みつけてあります。塔をおりて扉をドンドンたたく。しばらく待ってもあけてくれぬ。またドンドン靴でける。しばらく待っていると・・・ 寺田寅彦 「先生への通信」
・・・自然の神秘とその威力を知ることが深ければ深いほど人間は自然に対して従順になり、自然に逆らう代わりに自然を師として学び、自然自身の太古以来の経験をわが物として自然の環境に適応するように務めるであろう。前にも述べたとおり大自然は慈母であると同時・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
・・・丸裸のアダムに飼いならされた太古の野猫のある場合の挙動の遠い遠い反響が今目前に現われているのではないかという幻想の起こることもあった。 猫が人間の喜びに相当するらしい感情の表現として、前足で足踏みをするのは、食肉獣の祖先がいい獲物を見つ・・・ 寺田寅彦 「備忘録」
・・・ 道太がやや疲労を感じたころには、静かなこの廓にも太鼓の音などがしていた。三 離れの二階の寝心地は安らかであった。目がさめると裏の家で越後獅子のお浚いをしているのが、哀愁ふかく耳についた。「おはよう、おはよう」という・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ 寺の太鼓が鳴り出した。初冬の日はもう斜である。 わたくしは遂に海を見ず、その日は腑甲斐なく踵をかえした。昭和廿二年十二月 永井荷風 「葛飾土産」
・・・一番目は「酒井の太鼓」で、栄升の左衛門、雷蔵の善三郎と家康、蝶昇の茶坊主と馬場、高麗三郎の鳥居、芝三松の梅ヶ枝などが重立ったものであった。道具の汚いのと、役者の絶句と、演芸中に舞台裏で大道具の釘を打つ音が台辞を邪魔することなぞは、他では余り・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・湛然として音なき秋の水に臨むが如く、瑩朗たる面を過ぐる森羅の影の、繽紛として去るあとは、太古の色なき境をまのあたりに現わす。無限上に徹する大空を鋳固めて、打てば音ある五尺の裏に圧し集めたるを――シャロットの女は夜ごと日ごとに見る。 夜ご・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・この刺激の強い都を去って、突然と太古の京へ飛び下りた余は、あたかも三伏の日に照りつけられた焼石が、緑の底に空を映さぬ暗い池へ、落ち込んだようなものだ。余はしゅっと云う音と共に、倏忽とわれを去る熱気が、静なる京の夜に震動を起しはせぬかと心配し・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・実際我々は時勢の必要上そうは行かないようなものの腹の中では人の世話にならないでどこまでも一本立でやって行きたいと思っているのだからつまりはこんな太古の人を一面には理想として生きているのである。けれども事実やむをえない、仕方がないからまず衣物・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・寂然として太古の昔を至る所に描き出しているが、樹の高からぬのと秋の日の射透すので、さほど静かな割合に怖しい感じが少ない。その秋の日は極めて明かな日である。真上から林を照らす光線が、かの丸い黄な無数の葉を一度に洗って、林の中は存外明るい。葉の・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
出典:青空文庫