・・・それから、松蔵は、小さな体で堪えるだけの仕事はなんでもしました。工場にいっても働けば、家にいても働き、また、他人の家へ雇われていっても働きました。寒い冬の夜も、また、暑い夏の日盛りもいとわずに働きました。そして、自分の家のために尽くしました・・・ 小川未明 「海のかなた」
・・・たとえ学説や主義に囚われなくとも、資本主義の重圧に堪えることは、より以上に困難な時代であるからです。 いまこゝでは、資本家等の経営する職業雑誌が、大衆向きというスローガンを掲げることの誤謬であり、また、この時代に追従しなければならぬ作家・・・ 小川未明 「作家としての問題」
・・・蝉の声もいつかきこえず、部屋のなかに迷い込んで来た虫を、夏の虫かと思って、団扇ではたくと、ちりちりとあわれな鳴声のまま、息絶える。鈴虫らしい。八月八日、立秋と、暦を見るまでもなく、ああ、もう秋だな、と私は感ずるのである。ひと一倍早く……。・・・ 織田作之助 「秋の暈」
・・・そして自分の不如意や病気の苦しみに力強く堪えてゆくことのできる人間もあれば、そのいずれにも堪えることのできない人間もずいぶん多いにちがいない。しかし病気というものは決して学校の行軍のように弱いそれに堪えることのできない人間をその行軍から除外・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・しかし彼は道徳的評価の責に耐えるであろうか。責に耐えるとはどうしても、そうせぬことが可能であった場合でなくてはならぬ。人格に規定される故に自由であるという自由と責任の観念とは両立し得ない。しかしそれかといって、外部からも、人格からも、規定さ・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・坑外では、製煉所の銅の煙が、一分間も絶えることなく、昼夜ぶっつゞけに谷間の空気を有毒瓦斯でかきまぜていた。坑内には、湿気とかびと、石の塵埃が渦を巻いていた。彼は、空気も、太陽も金だと思わずにはいられなかった。彼は、汽車の窓から見た湘南のうら・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・落ちる四人と堪える四人との間で、ロープは力足らずしてプツリと切れて終いました。丁度午後三時のことでありましたが、前の四人は四千尺ばかりの氷雪の処を逆おとしに落下したのです。後の人は其処へ残ったけれども、見る見る自分たちの一行の半分は逆落しに・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・ 実際、いかに絶大の権力を有し、百万の富を擁して、その衣食住はほとんど完全の域に達している人びとでも、またかの律僧や禅家などのごとく、その養生のためには常人の堪えるあたわざる克己・禁欲・苦行・努力の生活をなす人びとでも、病なくして死ぬの・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・貧苦に堪える力は家内の方が反って私より強い……」 しばらく石のような沈黙が続いた。そのうちに微かに酔が学士の顔に上った。学者らしい長い眉だけホンノリと紅い顔の中に際立って斑白に見えるように成った。学士は楽しそうに両手や身体を動かして、胡・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・それが蜜柑畑の向うへはいってしまうと、しばらく近くには行くものの影が絶える。谷間谷間の黒みから、だんだんとこちらへ迫ってくる黄昏の色を、急がしい機の音が招き寄せる。「小母さんは何でこんなに遅いのでしょうね」と女の人は慰めるようにいう。あ・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
出典:青空文庫