・・・子安が東京から来て一月ばかり経つ時分には藤の花などが高い崖から垂下って咲いていた谷間が、早や木の葉の茂り合った蔭の道だ。暗いほど深い。 岡の上へ出ると、なまぬるい微かな風が黄色くなりかけた麦畠を渡って来る。麦の穂と穂の擦れる音が聞える。・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・吾々はよく、あの砂糖屋の奥にあった、茶室風の部屋に集って、其処で一緒に茶を呑みながら、雑誌を編輯したり、それから文学を談じたりして時の経つのを忘れる位であった。戸川秋骨君、馬場孤蝶君は、私が明治学院時代の友達という関係から、自然と文学界の仲・・・ 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
・・・結婚して六十日経つか経たないに、最早彼は疲れて了った。駄目、駄目、もうすこし男性の心情が理解されそうなものだとか、もうすこし他の目に付かないような服装が出来そうなものだとか、もうすこしどうかいう毅然とした女に成れそうなものだとか、過る同棲の・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・と、初やは、やっと廻りくどい話を切ってあちらへ立つ。藤さんはもう先達も聞いたから、今夜はそんなにおかしくはないと言ったけれど、それでもやはりはじめてのように笑っていた。 話が途絶える。藤さんは章坊が蒲団へ落した餡を手の平へ拾う。影法師が・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・あとから、あとから、腹が立つ。いまでも、私は、充分に怒っている。おまえは、いったいに、ひとをいたわることを知らない女だ。 ――すみません。あたし、若かったのよ。かんにんしてね。もう、もう、あたし、判ったわ。犬なんか、問題じゃなかったのね・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・ 討論の現場に居合せたもうひとりの下僚は、「いえ、いえ、どうして、かいとう乱麻を断つ、というところでしたよ」 とお世辞を言う。「かいとうとは、怪しい刀と書くんだろう?」 と彼はやはり苦笑しながら言って、でも内心は、まんざ・・・ 太宰治 「家庭の幸福」
・・・一年、二年経つうちに、愚鈍の私にも、少しずつ事の真相が、わかって来た。人の噂に依れば、私は完全に狂人だったのである。しかも、生れたときからの狂人だったのである。それを知って、私は爾来、唖になった。人と逢いたくなくなった。何も言いたくなくなっ・・・ 太宰治 「鴎」
・・・私の家では、あなたの評判は、日が経つにつれて、いよいよ悪くなる一方でした。あなたが、瀬戸内海の故郷から、親にも無断で東京へ飛び出して来て、御両親は勿論、親戚の人ことごとくが、あなたに愛想づかしをしている事、お酒を飲む事、展覧会に、いちども出・・・ 太宰治 「きりぎりす」
・・・こんど畑に家が建つのですのよ。薔薇を、な、これだけ植えて育てていたのですけんど、家が建つので可哀そうに、抜いて捨てなけれやならねえのよ。もったいないから、ここのお庭に、ちょっと植えさせて下さいましい。植えてから、六年になりますのよ。ほら、こ・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・けれども、ひとつき経つと、もういけない。そろそろ駄犬の本領を発揮してきた。いやしい。もともと、この犬は練兵場の隅に捨てられてあったものにちがいない。私のあの散歩の帰途、私にまつわりつくようにしてついてきて、その時は、見るかげもなく痩せこけて・・・ 太宰治 「畜犬談」
出典:青空文庫