・・・「ねえ、よい悪事って言葉、ないかしら。」「よい悪事。」私も、うっとり呟いてみる。「雨?」Kは、ふと、きき耳を立てる。「谷川だ。すぐ、この下を流れている。朝になってみると、この浴場の窓いっぱい紅葉だ。すぐ鼻のさきに、おや、と思・・・ 太宰治 「秋風記」
・・・たとえば山里の夜明けに聞こえるような鶏犬の声に和する谷川の音、あるいは浜べの夕やみに響く波の音の絶え間をつなぐ船歌の声、そういう種類のものの忠実なるレコードができたとすれば、塵の都に住んで雑事に忙殺されているような人が僅少な時間をさいて心を・・・ 寺田寅彦 「蓄音機」
・・・ 電車のゴウゴウと鳴る音のエネルギーの源をだんだんに捜して行くと思い掛けない甲州の淋しい山中の谷川に到着する。気持のいい谷川の瀬の音と電車の音とは実は従兄弟である。それから電車のポールの尖端から出る気味の悪い火花も、日本アルプスを照らす・・・ 寺田寅彦 「電車と風呂」
・・・ この二、三日方々から頻に絵葉書が来る。谷川を前にした温泉宿や松の生えた海辺の写真が来る。友達は皆例の如く避暑に出かけたのだ。しかし自分はまだ何処へも行こうという心持にはならない。 縁先の萩が長く延びて、柔かそうな葉の面に朝露が水晶・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・ 旅の旅その又旅の秋の風 国府津小田原は一生懸命にかけぬけてはや箱根路へかかれば何となく行脚の心の中うれしく秋の短き日は全く暮れながら谷川の音、耳を洗うて煙霧模糊の間に白露光あり。 白露の中にほつかり夜の山 湯元に辿・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
どっどど どどうど どどうど どどう青いくるみも吹きとばせすっぱいかりんも吹きとばせどっどど どどうど どどうど どどう 谷川の岸に小さな学校がありました。 教室はたった一つでしたが生徒は三年生がないだけ・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
九月一日 どっどどどどうど どどうど どどう、 ああまいざくろも吹きとばせ すっぱいざくろもふきとばせ どっどどどどうど どどうど どどう 谷川の岸に小さな四角な学校がありました。 学校・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
よく晴れて前の谷川もいつもとまるでちがって楽しくごろごろ鳴った。盆の十六日なので鉱山も休んで給料は呉れ畑の仕事も一段落ついて今日こそ一日そこらの木やとうもろこしを吹く風も家のなかの煙に射す青い光の棒もみんな二人のものだった・・・ 宮沢賢治 「十六日」
四つのつめたい谷川が、カラコン山の氷河から出て、ごうごう白い泡をはいて、プハラの国にはいるのでした。四つの川はプハラの町で集って一つの大きなしずかな川になりました。その川はふだんは水もすきとおり、淵には雲や樹の影もうつるのでしたが、一・・・ 宮沢賢治 「毒もみのすきな署長さん」
・・・一郎はいそいでごはんをたべて、ひとり谷川に沿ったこみちを、かみの方へのぼって行きました。 すきとおった風がざあっと吹くと、栗の木はばらばらと実をおとしました。一郎は栗の木をみあげて、「栗の木、栗の木、やまねこがここを通らなかったかい・・・ 宮沢賢治 「どんぐりと山猫」
出典:青空文庫