・・・素よりかような結末には深きつつしみと心遣いとがなければならないのはいうまでもない。多年愛し合った男女が別れて後互いに弱点を暴露して公に争うが如きは醜き限りである。願わくば別離を経験したことによって、前にも書いたようにその感情の質が深くそして・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・戦死負傷についても、彼は年少士官のそれに最も多く心を動かした。多年の苦学と、前途の希望が中断されるというのがその理由である。そこにも、支配階級の立場と、当時の進取的な、いわゆる立身成功を企図したブルジョアイデオロギーの反映がある。「愛弟・・・ 黒島伝治 「明治の戦争文学」
・・・両人は多年の労苦に老い疲れていた。山も田も抵当に入り、借金の利子は彼等を絶えず追っかけてきた。最後に残してあった屋敷と、附近の畑まで、清三の病気のために書き入れなければならなくなった。 清三は卒業前に就職口が決定する筈だった。両人は、息・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・ ところが晩成先生は、多年の勤苦が酬いられて前途の平坦光明が望見せらるるようになった気の弛みのためか、あるいは少し度の過ぎた勉学のためか何か知らぬが気の毒にも不明の病気に襲われた。その頃は世間に神経衰弱という病名が甫めて知られ出した時分・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・は幾度か憩いけるに、初めは路の傍の草あるところに腰を休めなどせしも、次には路央に蝙蝠傘を投じてその上に腰を休むるようになり、ついには大の字をなして天を仰ぎつつ地上に身を横たえ、額を照らす月光に浴して、他年のたれ死をする時あらば大抵かかる光景・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・おげんは弟の連合が子供の育て方なぞを逐一よく見て、それを母親としての自分の苦心に思い比べようとした。多年の経験から来たその鋭い眼を家の台所にまで向けることは、あまりおさだに悦ばれなかった。「姉さんはお料理のことでも何でもよく知っていらっ・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・その住職は多年諸国の行脚を思い立ちながら、寺の後継者の成長する日まで待ち、破れた本堂の屋根の修繕を終る日まで待ちするうちに、だんだん年をとってしまって、いよいよ行脚に出掛ける頃は既に七十の歳であったという。昼は昼食、夜は一泊、行くさきざきの・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・この店の給仕頭は多年文士に交際しているので、人物の鑑識が上手になって、まだ鬚の生えない高等学校の生徒を相して、「あなたはきっと晩年のギョオテのような爛熟した作をお出しになる」なんぞと云うのだが、この給仕頭の炬の如き眼光を以て見ても、チルナウ・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・もちろんそれに関して私のこれまでに得た研究の結果は、学界に対する貢献としては誠に些細なお恥ずかしいものであったであろうが、ただ自分だけでは、自分自身の多年の疑問の中の少部分だけでも、いくらかそれによって明らかにすることが出来たと思うことに無・・・ 寺田寅彦 「家庭の人へ」
・・・それが、多年の熟練の結果であろうが、はじめひょいと載せただけでもう第一近似的にはちゃんと正しい位置におかれている、それで、あとはただこの団塊をしっかり台板に押しつけ固着させるための操作を兼ねて同時にほんの少しの第二近似を行なうだけである。さ・・・ 寺田寅彦 「空想日録」
出典:青空文庫