・・・あの高い森の上に、千木のお屋根が拝される……ここの鎮守様の思召しに相違ない。――五月雨の徒然に、踊を見よう。――さあ、その気で、更めて、ここで真面目に踊り直そう。神様にお目にかけるほどの本芸は、お互にうぬぼれぬ。杓子舞、擂粉木踊だ。二人は、・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・もはや恐怖も遅疑も無い。進むべきところに進む外、何を顧みる余地も無くなった。家族には近い知人の二階屋に避難すべきを命じ置き、自分は若い者三人を叱して乳牛の避難にかかった。かねてここと見定めて置いた高架鉄道の線路に添うた高地に向って牛を引き出・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・ひとり恥ずかしく日夜悶悶、陽のめも見得ぬ自責の痩狗あす知れぬいのちを、太陽、さんと輝く野天劇場へわざわざ引っぱり出して神を恐れぬオオルマイティ、遅疑もなし、恥もなし、おのれひとりの趣味の杖にて、わかきものの生涯の行路を指定す。かつは罰し、か・・・ 太宰治 「創生記」
・・・ところが維新以後四十四五年を経過した今日になって、この道徳の推移した経路をふり返って見ると、ちゃんと一定の方向があって、ただその方向にのみ遅疑なく流れて来たように見えるのは、社会の現象を研究する学者に取ってはなはだ興味のある事柄と云わなけれ・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
・・・ 男の側から気持をそういう方向にもってゆく場合が目立ってとらえられていたというのも、云って見れば、暗黙のうちに女のひとの心の中に生じていた結婚に対する遅疑や逡巡が照りかえしたものとしての現れであると云えるところもあろう。時局に際しての女・・・ 宮本百合子 「これから結婚する人の心持」
・・・ 作者のこの気象から出る作家的な気張りは、その文章の構えかたにもあらわれ、一般読者は作中の人物、事件は何となくガラスのようで、研究材料のようだとは感じつつ、ある程度まで作者の確信や度胸で遅疑なくキューと描かれている輪廓のつよさ、鮮明さに・・・ 宮本百合子 「一九三四年度におけるブルジョア文学の動向」
・・・彼はその理想の情熱と公憤との権利をもって、何の遅疑する所もなく、大胆に満腹の嘲罵を社会の偽善と不徹底との上に注ぐのである。 しかしドストイェフスキイのメフィストは常にファウストに添って現われて来る。真の生を求めて泣き、苦しみ、恐れ、絶望・・・ 和辻哲郎 「転向」
出典:青空文庫