・・・が、勿論実生活の上では安全地帯の外に出ることはたった一度だけで懲り懲りしてしまった。 或自殺者 彼は或瑣末なことの為に自殺しようと決心した。が、その位のことの為に自殺するのは彼の自尊心には痛手だった。彼はピストルを手にし・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・と呼んだのを思い出し、この十字架のかかった屋根裏も安全地帯ではないことを感じた。「如何ですか、この頃は?」「不相変神経ばかり苛々してね」「それは薬でも駄目ですよ。信者になる気はありませんか?」「若し僕でもなれるものなら……」・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・思慮のある見識のある人でも一度恋に陥れば、痴態を免れ得ない。この夜二人はただ嬉しくて面白くて、将来の話などしないで寝てしまった。翌朝お千代が来た時までに、とにかく省作がまず一人で東京へ出ることとこの月半に出立するという事だけきめた。おとよは・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ 芸術は、血と涙の結晶であると同時に、遅滞した生活を洗錬する革命の炎である。芸術家は、先駆者であり、彼等の行動は、真に犠牲的精神から発する。しかるに、アカデミックの芸術は、旧文化の擁護である。旧道徳の讃美である。 私達は、IWWの宣・・・ 小川未明 「芸術は革命的精神に醗酵す」
・・・信仰の流行地帯である。迷信の温床である。たとえば観世音がある。歓喜天がある。弁財天がある。稲荷大明神がある。弘法大師もあれば、不動明王もある。なんでも来いである。ここへ来れば、たいていの信心事はこと足りる。ないのはキリスト教と天理教だけであ・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・それは大阪の市が南へ南へ伸びて行こうとして十何年か前までは草深い田舎であった土地をどんどん住宅や学校、病院などの地帯にしてしまい、その間へはまた多くはそこの地元の百姓であった地主たちの建てた小さな長屋がたくさんできて、野原の名残りが年ごとに・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
そこは、南に富士山を背負い、北に湖水をひかえた名勝地帯だった。海抜、二千六百尺。湖の中に島があった。 見物客が、ドライブしてやって来る。何とか男爵別荘、何々の宮家別邸、缶詰に石ころを入れた有名な奴の別荘などが湖畔に建っ・・・ 黒島伝治 「名勝地帯」
・・・ような人間、――勿論すっかり同じであるというのではありませんが、殆どこの磯九郎のような人間は、常に当時の実社会と密接せんことを望みつつ著述に従事したところの式亭三馬の、その写実的の筆に酔客の馬鹿げた一痴態として上って居るのを見ても分ることで・・・ 幸田露伴 「馬琴の小説とその当時の実社会」
・・・の字を倒さにしたような形で、二つの並行した山脈地帯を低い平野が紐で細く結んでいるような状態なのである。大きいほうの山脈地帯は、れいの雲煙模糊の大陸なのである。さきの沈黙の島は、小さいほうの山脈地帯なのである。平野は、低いから全く望見できなか・・・ 太宰治 「佐渡」
・・・ あれはもう初夏の頃で、そろそろれいの中小都市爆撃がはじまって、熱海伊東の温泉地帯もほどなく焼き払われるだろうということになり、荷物の疎開やら老幼者の避難やらで悲しい活気を呈していた。その頃の事だが、或る日、昼飯後の休憩時間に、僕は療養・・・ 太宰治 「雀」
出典:青空文庫