・・・又焼けてから半日経たぬ間に焼けた本の目録を作るは丸善のような遅鈍な商人には決して出来ない。概算一万三千種の書目を作るは十人のタイピストが掛っても二日や三日では出来るものではない。恐らく此記者先生は丸善を雑誌屋とでも思ったのであろう。此質問一・・・ 内田魯庵 「灰燼十万巻」
・・・ 希望なき安心の遅鈍なる生活もいつしか一月ばかり経って、豊吉はお花の唱歌を聞きながら、居眠ってばかりいない、秋の夕空晴れて星の光も鮮やかなる時、お花に伴われてかの小川の辺など散歩し、お花が声低く節哀れに唱うを聞けばその沈みはてし心かすか・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・君のような神経の少し遅鈍の方なら知らないこと――失敬失敬――僕はもう呼吸が塞がりそうになって、目がぐらぐらして来た。これが三十分も続いたら僕は気絶したろう。ところが間もなく、旦那はうめえなアと耳元で大声に叫んだ奴がある。 びっくりして振・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・ 娘に対して注文がないということは生への冷淡と、遅鈍のしるしでほめた話ではない。むしろさかんな注文を出して、立派な、特色のある娘たちを産み出してもらいたいものだ。 イギリスの貴族の青年は祖国の難のあるとき、ぐずぐずしていると、令嬢た・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・ 親爺は、もう、親爺としての一生は、失敗であり、無意義であり、朴訥と、遅鈍と、阿呆の歴史であった、と感じたのに違いない。彼の一代の総勘定はすんでしまった。そして残ったものは零である。 彼は、死んだ。その一生のつとめを終ってしまった樹・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・ 玉のほうは三毛とは反対に神経が遅鈍で、おひとよしであると同時に、挙動がなんとなく無骨で素樸であった。どうかするとむしろ犬のある特性を思い出させるところがあった。宅へ来た当座は下性が悪くて、食い意地がきたなくて、むやみにがつがつしていた・・・ 寺田寅彦 「子猫」
・・・人間流に考えるとこの三匹はのんきで無神経で、つまり環境への順応が遅鈍であるのか、それともつむじ曲がりのあまのじゃくであるのかとも思われる。しかしまた考えてみると、とんぼの方向を支配する環境的因子はいろいろあるであろうから、他の多数のとんぼが・・・ 寺田寅彦 「三斜晶系」
・・・そうして、そういう接触に人間が馴れ得るためにはそういう接触の時間的変化があまりに急激過ぎるか、ないしは人間の頭の適応性があまりに遅鈍であり過ぎるか、とにかくそのために接触界面の現象として色々な異常現象が頻出するかと思われるふしも少なくないよ・・・ 寺田寅彦 「猫の穴掘り」
・・・それはとにかく、あの運動遅鈍なみみずでさえ、同じ種族と考えられるものが、「現時の大洋」を越えてまでも広がっているという事実を一方に置いて考えてみる。もちろんこの蚯蚓の先祖と人間の先祖とどちらが古いかというような問題はあってもそれは別として、・・・ 寺田寅彦 「比較言語学における統計的研究法の可能性について」
・・・粗野にして滑稽なる相貌をもち、遅鈍にして大食であり、あらゆるデリカシーというものを完全に欠如した性格であった。従って家内じゅうのだれにも格別に愛せられなかった。小さい時分は一家じゅうの寵児である「三毛」の遊戯の相手としての「道化師」として存・・・ 寺田寅彦 「備忘録」
出典:青空文庫