・・・ あれはもう初夏の頃で、そろそろれいの中小都市爆撃がはじまって、熱海伊東の温泉地帯もほどなく焼き払われるだろうということになり、荷物の疎開やら老幼者の避難やらで悲しい活気を呈していた。その頃の事だが、或る日、昼飯後の休憩時間に、僕は療養・・・ 太宰治 「雀」
・・・という抽象的な悲しみに、急激に襲われたためだと思う。特に私を選んで泣いたのでは無いと、わかっていながら、それでも、強く私は胸を突かれた。も少し、親しくして置けばよかったと思った。 これだけのことでも、やはり、「のろけ」という事になるので・・・ 太宰治 「俗天使」
・・・そこへCやDやEやFやGやHやそのほかたくさんの人物がつぎつぎに出て来て、手を変え品を変え、さまざまにBを中傷する。――それから、――AはやっぱりBを信じている。疑わない。てんから疑わない。安心している。Aは女、Bは男、つまらない小説だね。・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・攻撃が、中小都市に向けられ、甲府も、もうすぐ焼き払われる事にきまった、という噂が全市に満ちた。市民はすべて浮足立ち、家財道具を車に積んで家族を引き連れ山の奥へ逃げて行き、その足音やら車の音が深夜でも絶える事なく耳についた。それはもう甲府も、・・・ 太宰治 「薄明」
・・・ これに反してアインシュタインの取扱った対象は抽象された時と空間であって、使った道具は数学である。すべてが論理的に明瞭なものであるにかかわらず、使っている「国語」が世人に親しくないために、その国語に熟しない人には容易に食い付けない。それ・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・どんな抽象的な教材でも、それが生徒の心の琴線に共鳴を起させるようにし、好奇心をいつも活かしておかねばならない。」 これは多数の人にとって耳の痛い話である。 この理想が実現せられるとして、教案を立てる際に材料と分布をどうするかという問・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
・・・切り離すと、もうそれは自分の活きた経験でなくなって、まるで影の薄い抽象的な「誰でも」の知識になってしまう。 吾々は学問というものの方法に馴れ過ぎて、あまりに何でも切り離し過ぎるために、あらゆる体験の中に含まれた一番大事なものをいつでも見・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・女の人形の運動は男のよりもより多く細かな曲線を描くのはもとより当然であるが、それが人形であるためにそういう運動の特徴がいっそう抽象示揚されるのであろう。泣き伏すところなどでも肩の運動一つでその表情の特徴が立派に表現される。見ているものは熱い・・・ 寺田寅彦 「生ける人形」
・・・是僕をして新聞記者の中傷を顧みず泰然としてカッフェーの卓子に倚らしめた理由の第四である。 僕のしばしば出入したカッフェーには給仕の女が三十人あまり、肩揚のある少女が十人あまり。酒場の番をしている男が三四人、帳簿係の女が五六人、料理人が若・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・しこうして、その理想なるものが、忠とか孝とかいう、一種抽象した概念を直ちに実際として、即ち、この世にあり得るものとして、それを理想とさせた、即ち孔子を本家として、全然その通りにならなくともとにかくそれを目あてとして行くのであります。 な・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
出典:青空文庫