・・・中庭には太い冬青の樹が一本、手水鉢に臨んでいるだけだった。麻の掻巻をかけたお律は氷嚢を頭に載せたまま、あちら向きにじっと横になっていた。そのまた枕もとには看護婦が一人、膝の上にひろげた病床日誌へ近眼の顔をすりつけるように、せっせと万年筆を動・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・………… お蓮は顔を洗ってしまうと、手水を使うために肌を脱いだ。その時何か冷たい物が、べたりと彼女の背中に触れた。「しっ!」 彼女は格別驚きもせず、艶いた眼を後へ投げた。そこには小犬が尾を振りながら、頻に黒い鼻を舐め廻していた。・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・さて、厠を出て、うすぐらい手水所で手を洗っていると突然後から、誰とも知れず、声をかけて、斬りつけたものがある。驚いて、振り返ると、その拍子にまた二の太刀が、すかさず眉間へ閃いた。そのために血が眼へはいって、越中守は、相手の顔も見定める事が出・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・「お手水。」「いいえ、寝るの。」「はッ。」と、いうと、腰を上げざまに襖を一枚、直ぐに縁側へ辷って出ると、呼吸を凝して二人ばかり居た、恐いもの見たさの徒、ばたり、ソッと退く気勢。「や。」という番頭の声に連れて、足も裾も巴に入乱・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・最愛最惜の夫人の、消息の遅さを案じて、急心に草を攀じた欣七郎は、歓喜天の御堂より先に、たとえば孤屋の縁外の欠けた手水鉢に、ぐったりと頤をつけて、朽木の台にひざまずいて縋った、青ざめた幽霊を見た。 横ざまに、杖で、敲き払った。が、人気勢の・・・ 泉鏡花 「怨霊借用」
・・・丹波鬼灯、海酸漿は手水鉢の傍、大きな百日紅の樹の下に風船屋などと、よき所に陣を敷いたが、鳥居外のは、気まぐれに山から出て来た、もの売で。―― 売るのは果もの類。桃は遅い。小さな梨、粒林檎、栗は生のまま……うでたのは、甘藷とともに店が違う・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・ 意気な小家に流連の朝の手水にも、砂利を含んで、じりりとする。 羽目も天井も乾いて燥いで、煤の引火奴に礫が飛ぶと、そのままチリチリと火の粉になって燃出しそうな物騒さ。下町、山の手、昼夜の火沙汰で、時の鐘ほどジャンジャンと打つける、そ・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・「姉さん、風呂には及ばないが、顔が洗いたい。手水……何、洗面所を教えておくれ。それから、午飯を頼む。ざっとでいい。」 二階座敷で、遅めの午飯を認める間に、様子を聞くと、めざす場所――片原は、五里半、かれこれ六里遠い。―― 鉄道は・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・また一組は、おなじく餌を含んで、親雀が、狭い庭を、手水鉢の高さぐらいに舞上ると、その胸のあたりへ附着くように仔雀が飛上る。尾を地へ着けないで、舞いつつ、飛びつつ、庭中を翔廻りなどもする、やっぱり羽を馴らすらしい。この舞踏が一斉に三組も四組も・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・その手水鉢の周囲に、ただ一人……その稚児が居たのであった。 が、炎天、人影も絶えた折から、父母の昼寝の夢を抜出した、神官の児であろうと紫玉は視た。ちらちら廻りつつ、廻りつつ、あちこちする。…… と、御手洗は高く、稚児は小さいので、下・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
出典:青空文庫