・・・ 洗面所の壁のその柱へ、袖の陰が薄りと、立縞の縞目が映ると、片頬で白くさし覗いて、「お手水……」 と、ものを忍んだように言った。優しい柔かな声が、思いなしか、ちらちらと雪の降りかかるようで、再び悚然として息を引く。……「どう・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・ 省作は手水鉢へ水を持ってきて、軒口の敷居に腰を掛けつつ片肌脱ぎで、ごしごしごしごし鎌をとぐのである。省作は百姓の子でも、妙な趣味を持ってる男だ。 森の木陰から朝日がさし込んできた。始めは障子の紙へ、ごくうっすらほんのりと影がさす。・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・ 井戸ばたの流し場に手水をすました自分も、鶏に興がる子どもたちの声に引かされて、覚えず彼らの後ろに立った。先に父を見つけたお児は、「おんちゃんにおんぼしんだ、おんちゃんにおんぼしんだ」 と叫んで父の膝に取りついた。奈々子もあとか・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・小女が手水を持ってきてくれた。岡村は運動も止めて家の者と話をして居るが、予の方へ出てくる様子もない。勿論茶も出さない。お繁さんの居ない事はもはや疑うべき余地はないのであった。 昨夜からの様子で冷遇は覚悟していても、さすが手持無沙汰な事夥・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・おとよは気が引けるわけもないけれども、今日はまた何といわれるのかと思うと胸がどきまぎして朝飯につく気にもならない、手水をつかい着物を着替えて、そのままお千代が蚕籠を洗ってる所へ行こうとすると、「おとよ」と呼ぶのは母であった。おとよは・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・寝かせた儘手水を使わせ、朝食をとらせました。朝は大抵牛乳一合にパン四分の一斤位、バターを沢山付けて頂きます。その彼へスープ一合、黄卵三個、肝油球。昼はお粥にさしみ、ほうれん草の様なもの。午後四時の間食には果物、時には駿河屋の夜の梅だとか、風・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・ガラス障子の外には、狭い形ばかりの庭ではあるが、ちょっとした植込みに石燈籠や手水鉢などが置いてあった。そして手水鉢にはいつでも清水がいっぱいに溢れていた。 ボーイはただ一人で間に合っていた。それは三十を少し越したくらいの男であった。いつ・・・ 寺田寅彦 「雑記(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・はいって来る信徒らは皆入り口の壁や柱にある手水鉢に指の先をちょっと入れて、額へ持って行って胸へおろしてそれから左の乳から右の乳へ十字をかく。堂のわきのマドンナやクリストのお像にはお蝋燭がともって二三人ずつその前にひざまずいて祈っている。蝋燭・・・ 寺田寅彦 「先生への通信」
・・・これが気立てのやさしい正直もので、もっとも少しぼんやりしていて、たぬきは人に化けるものだというような事を信じていたが、とにかく忠実に病人の看護もし、しかられても腹も立てず、そして時にしくじりもやった。手水鉢を座敷のまん中で取り落として洪水を・・・ 寺田寅彦 「どんぐり」
・・・自分も縁側へ出て新しく水を入れた手水鉢で手洗い口すすいで霊前にぬかずき、わが名を申上げて拍手を打つと花瓶の檜扇の花びらが落ちて葡萄の上にとまった。いちばん御拝の長かったは母上で、いちばん神様の御気に召したかと思われるはせいちゃんのであった。・・・ 寺田寅彦 「祭」
出典:青空文庫