・・・雪ちゃんもこの色の蒼白いそして脊のすらりとしたところは主婦に似ていて、朝手水の水を汲むとて井戸縄にすがる細い腕を見ると何だかいたいたしくも思われ、また散歩に出掛ける途中、御使いから帰って来るのに会う時御辞儀をして自分を見て微笑する顔の淋しさ・・・ 寺田寅彦 「雪ちゃん」
・・・母さんお手水にと立って障子を明けると、夕闇の庭つづき、崖の下はもう真暗である。私は屋敷中で一番早く夜になるのは、古井戸のある彼の崖下……否、夜は古井戸の其底から湧出るのではないかと云う感じが、久しい後まで私の心を去らなかった。 私は小学・・・ 永井荷風 「狐」
・・・屋根といい、竹格子の窓といい、入口の杉戸といい、殊に手を洗う縁先の水鉢、柄杓、その傍には極って葉蘭や石蕗などを下草にして、南天や紅梅の如き庭木が目隠しの柴垣を後にして立っている有様、春の朝には鶯がこの手水鉢の水を飲みに柄杓の柄にとまる。夏の・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・ 五月雨に四尺伸びたる女竹の、手水鉢の上に蔽い重なりて、余れる一二本は高く軒に逼れば、風誘うたびに戸袋をすって椽の上にもはらはらと所択ばず緑りを滴らす。「あすこに画がある」と葉巻の煙をぷっとそなたへ吹きやる。 床柱に懸けたる払子の先・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・「いいえね、さっき手水に行ったとき、あすこに大きなお人形さんがいたのを思い出してね、君や、おいでよ」 奥さんは幾時間でも壁だの湯殿のタイルだのをほじくって余念なかった。そこにはきっと蠅の糞の跡とか塵とか針の先ほどのものがついてい、人・・・ 宮本百合子 「牡丹」
・・・その下には丈の高い石の頂を掘りくぼめた手水鉢がある。その上に伏せてある捲物の柄杓に、やんまが一疋止まって、羽を山形に垂れて動かずにいる。 一時立つ。二時立つ。もう午を過ぎた。食事の支度は女中に言いつけてあるが、姑が食べると言われるか、ど・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・それで奥さんは手水に起きる度に、廊下から見て、秀麿のいる洋室の窓の隙から、火の光の漏れるのを気にしているのである。 ―――――――――――――――― 秀麿は学習院から文科大学に這入って、歴史科で立派に卒業した。卒業論・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・外の女ならこんな時手水にでも起きるのだが、お金は小用の遠い性で、寒い晩でも十二時過ぎに手水に行って寝ると、夜の明けるまで行かずに済ますのである。お金はぼんやりして、広間の真中に吊るしてある電灯を見ていた。女中達は皆好く寐ている様子で、所々で・・・ 森鴎外 「心中」
・・・ 翌朝手水鉢に氷が張っている。この氷が二日より長く続いて張ることは先ず少い。遅くも三日目には風が変る。雪も氷も融けてしまうのである。 弐 小倉の雪の夜の事であった。 新魚町の大野豊の家に二人の客が落ち合・・・ 森鴎外 「独身」
・・・石田は早く起きて、例の狭い間で手水を使った。これまでは日曜日にも用事があったが、今日は始て日曜日らしく感じた。寝巻の浴帷子を着たままで、兵児帯をぐるぐると巻いて、南側の裏縁に出た。南国の空は紺青いろに晴れていて、蜜柑の茂みを洩れる日が、きら・・・ 森鴎外 「鶏」
出典:青空文庫