・・・と、病人は直ぐ「看護婦さん、そりゃ間違っているでしょう。お母さん脈」といって手を差出しました。私はその手を握りながら「ああ脈は百十だね、呼吸は三十二」と訂正しました。普段から、こんな風に私は病人の苦痛を軽くする為に、何時も本当のことは言わな・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・ ジュ、ジュクと雀の啼声が樋にしていた。喬は朝靄のなかに明けて行く水みずしい外面を、半分覚めた頭に描いていた。頭を挙げると朝の空気のなかに光の薄れた電燈が、睡っている女の顔を照していた。 花売りの声が戸口に聞こえたときも彼は眼を・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・読み返しては訂正していたのが、それもできなくなってしまった。どう直せばいいのか、書きはじめの気持そのものが自分にはどうにも思い出せなくなっていたのである。こんなことにかかりあっていてはよくないなと、薄うす自分は思いはじめた。しかし自分は執念・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・あの人たちには、私の描写に対して訂正を申込み給う機会さえ無いのだから。 私は絶対に嘘を書いてはいけない。 中畑さんも北さんも、共に、かれこれ五十歳。中畑さんのほうが、一つか二つ若いかも知れない。中畑さんは、私の死んだ父に、愛されてい・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・そうして貴下の御心配下さる事柄に対して、小生としても既に訂正しつつあるということを御報告したいのです。それは前陳の、予感があったという、それだけでも、うなずいて頂けると思います。何はしかれ、御手紙をうれしく拝見したことをもう一度申し上げて万・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・ 本当は副組長なのだけれど、組長のお方がお年寄りなので、組長の仕事を代りにやってあげているのです、と奥様が小声で訂正して下さった。亀井さんの御主人は、本当にまめで、うちの主人とは雲泥の差だ。 お菓子をいただいて玄関先で失礼した。・・・ 太宰治 「十二月八日」
・・・うに私は元来、あの美談の偉人の心懐には少しも感服せず、かえって無頼漢どもに対して大いなる同情と共感を抱いていたつもりであったが、しかし、いま眼前に、この珍客を迎え、従来の私の木村神崎韓信観に、重大なる訂正をほどこさざるを得なくなって来たよう・・・ 太宰治 「親友交歓」
・・・言葉を訂正することなど、死んでも恥かしくてできないのだった。私は夢中で呟いた。「今月末が〆切なのです。いそがしいのです。」 私の運命がこのとき決した。いま考えても不思議なのであるが、なぜ私は、あのような要らないことを呟かねばならなか・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
・・・のタを消してトに訂正してあったりするのをしみじみ見ていると、当時における八雲氏の家庭生活とか日常の心境とかいうものの一面がありありと想像されるような気がしてくるのである。おそらく夕飯後の静かな時間などに夫人を相手にいろいろのことを質問したり・・・ 寺田寅彦 「小泉八雲秘稿画本「妖魔詩話」」
・・・ボーアをまちがえてポーア/\と云っているのが気になるので、それだけは訂正しておいた。 ボーアの理論の始めて発表されたのは一九一三年であったから、もうちょうど一と昔前の事である。その説はすぐに我邦の専門家の間にも伝えられ、考究され、紹介さ・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
出典:青空文庫