・・・ 近ごろボルンが新しい統計的物理学の基礎を論じた中に、ウィルヘルム・テルがむすこの頭上のりんごを射落とす話を引き合いにだした。昔の物理学者らが一名を電子と称するテルの矢のねらいは熟練と注意とによって無限に精確になりうると考えたに反して、・・・ 寺田寅彦 「野球時代」
・・・ 近ごろボルンが新しい統計的物理学の基礎を論じた中に、ウィルヘルム・テルがむすこの頭上のりんごを射落とす話を引き合いにだした。昔の物理学者らが一名を電子と称するテルの矢のねらいは熟練と注意とによって無限に精確になりうると考えたに反して、・・・ 寺田寅彦 「野球時代」
・・・酒のお酌や飯の給仕に出るのがその綾子さんで、どうも様子が可怪しいと思ってるてえと、やがてのこと阿母さんの口から縁談の話が出た。けど秋山少尉は考えておきますと、然いうだけで、何遍話をしても諾といわない。 そこで阿母さんも不思議に思って、娘・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・もっとも林君もたっしゃでいてくれればもうお父さんになってる筈だから、ひょっとすればその林君の子供が、この読者にまじっていて、昔の茂少年とそっくりに頬っぺたブラさげてこの話を読んでいるかも知れない。もしかそうだったらどんなに嬉しいだろう。・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・「どの位借りてるんだ。」「千円で四年だよ。」「これから四年かい。大変だな。」「もう一人の人なんか、もっと長くいるよ。」「そうか。」 下で呼鈴を鳴す音がしたので、わたくしは椅子を立ち、バスへ乗る近道をききながら下へ降り・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・彼は能く唄ったけれど鼻がつまって居る故か竹の筒でも吹くように唯調子もない響を立てるに過ぎない。性来頑健は彼は死ぬ二三年前迄は恐ろしく威勢がよかった。死ぬ迄も依然として身体は丈夫であったけれど何処となく悄れ切って見えた。それは瞽女のお石がふっ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・かの腕輪は再びきらめいて、玉と玉と撃てる音か、戛然と瞬時の響きを起す。「命は長き賜物ぞ、恋は命よりも長き賜物ぞ。心安かれ」と男はさすがに大胆である。 女は両手を延ばして、戴ける冠を左右より抑えて「この冠よ、この冠よ。わが額の焼ける事・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・円く照る明月のあすをと問わば淋しからん。エレーンは死ぬより外の浮世に用なき人である。 今はこれまでの命と思い詰めたるとき、エレーンは父と兄とを枕辺に招きて「わがためにランスロットへの文かきて玉われ」という。父は筆と紙を取り出でて、死なん・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・だが日本で普通に言はれてるやうな範疇の詩人にも、また勿論ニイチェは理解されない。だがその二つの資格をもつ読者にとつて、ニイチェほど興味が深く、無限に深遠な魅力のある著者は外にない。ニイチェの驚異は、一つの思想が幾つも幾つもの裏面をもち、幾度・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・「そりゃ分らねえ、分らねえ筈だ、未だ事が持ち上らねえからな、だが二分は持ってるだろうな」 私はポケットからありったけの金を攫み出して見せた。 もうこれ以上飲めないと思って、バーを切り上げて来たんだから、銀銅貨取り混ぜて七八十銭も・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
出典:青空文庫