・・・現にその発現は世の中にどんな形になって、どんなに現れているかと云うことは、この競争劇甚の世に道楽なんどとてんでその存在の権利を承認しないほど家業に励精な人でも少し注意されれば肯定しない訳に行かなくなるでしょう。私は昨晩和歌の浦へ泊りましたが・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・「俺の家だと思えばどうか知らんが、てんで俺の家だと思いたくないんだからね。そりゃ名前だけは主人に違いないさ。だから門口にも僕の名刺だけは張り付けて置いたがね。七円五十銭の家賃の主人なんざあ、主人にしたところが見事な主人じゃない。主人中の・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・なたがたは主人である、だからおとなしくしなくてはならない、とこう云おうとすれば云われない事もないでしょうが、それは上面の礼式にとどまる事で、精神には何の関係もない云わば因襲といったようなものですから、てんで議論にはならないのです。別の例を挙・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・検閲が通らないだろうなどと云うことは、てんで問題にしないでいても自分で秘密にさえ書けないんだから仕方がない。 だが下らない前置を長ったらしくやったものだ。 私は未だ極道な青年だった。船員が極り切って着ている、続きの菜っ葉服が、矢・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ そこで四人の男たちは、てんでにすきな方へ向いて、声を揃えて叫びました。「ここへ畑起してもいいかあ。」「いいぞお。」森が一斉にこたえました。 みんなは又叫びました。「ここに家建ててもいいかあ。」「ようし。」森は一ぺん・・・ 宮沢賢治 「狼森と笊森、盗森」
・・・このなかで、いちばんえらくなくて、ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、あたまのつぶれたようなやつが、いちばんえらいのだ。」 どんぐりは、しいんとしてしまいました。それはそれはしいんとして、堅まってしまいました。 そこで山猫・・・ 宮沢賢治 「どんぐりと山猫」
・・・満ちているところを追々のぼって五階の廊下へ出たら、ここの廊下も同じく隈ない明るさにしーんとしずまって、人気もない沢山のドアの前へ、どこの洒落もののいたずらか、男と女との靴が、一組一組、みんなちんばに、てんでばらばらな途方もない片方ずつによせ・・・ 宮本百合子 「十四日祭の夜」
・・・何と云うか、てんで相手ではないんです。高岡只一がモスコーで支那人かと思われた。と云うといろいろ為になる陳述の間は質問一つせず静まりかえっていた宮城裁判長が、例の鼻にかかった声で「ヨーロッパで日本人が支那人に間違えられるのは珍しいこっちゃない・・・ 宮本百合子 「共産党公判を傍聴して」
・・・』『わしは誓います、わしはてんでそんなことはまるきり知らねエだ。』『でもお前は見つかッたゾ。』『人がわしを見たッて、わしを。そのわしを見つけたチゅうのは全体たれのこッてござりますべエ。』『馬具匠のマランダン。』 そこで老・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・そして十二時の時計が鳴り始めると同時に、さあ新年だと云うので、その酒を注いだ杯をてんでんに持って、こつこつ打ち附けて、プロジット・ノイヤアルと大声で呼んで飲むのです。それからふざけながら町を歩いて帰ると、元日には寝ていて、午まで起きはしませ・・・ 森鴎外 「かのように」
出典:青空文庫