一 加州石川郡金沢城の城主、前田斉広は、参覲中、江戸城の本丸へ登城する毎に、必ず愛用の煙管を持って行った。当時有名な煙管商、住吉屋七兵衛の手に成った、金無垢地に、剣梅鉢の紋ぢらしと云う、数寄を凝らした・・・ 芥川竜之介 「煙管」
・・・――既に病気が本復した以上、修理は近日中に病緩の御礼として、登城しなければならない筈である。所が、この逆上では、登城の際、附合の諸大名、座席同列の旗本仲間へ、どんな無礼を働くか知れたものではない。万一それから刃傷沙汰にでもなった日には、板倉・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・花田と青島登場。花田 おまえたちは始終俺のことを俗物だ俗物だといっていやがったな。若様どうだ。瀬古 僕は汚されたミューズの女神のために今命がけの復讐をしているところだ。待ってくれ。花田 貴様、俺のチョコレットを・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・動かせば、斉しく振動かし、足を爪立つれば爪立ち、踞めば踞むを透し視めて、今はしも激しく恐怖し、慌しく駈出帽子を目深に、オーバーコートの鼠色なるを被、太き洋杖を持てる老紳士、憂鬱なる重き態度にて登場。初の烏ハタと行当る。驚いて身を・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・高原七左衛門。登場。道を譲る。村越 ま、まあ、御老人。七左 いや、まず……先生。村越 先生は弱りました。(忸怩では書生流です、御案内。七左 その気象! その気象!撫子。出迎えんとして、ちょっと髷に手を遣り、台所へ・・・ 泉鏡花 「錦染滝白糸」
湯島の境内 冴返る春の寒さに降る雨も、暮れていつしか雪となり、仮声使、両名、登場。上野の鐘の音も氷る細き流れの幾曲、すえは田川に入谷村、その仮声使、料理屋の門に立ち随・・・ 泉鏡花 「湯島の境内」
・・・になればなるほど形式が単純になり、簡素になり、お能はその極致だという結論に達していたが、しかし、純粋小説とは純粋になればなるほど形式が不純になり、複雑になり、構成は何重にも織り重って遠近法は無視され、登場人物と作者の距離は、映画のカメラアン・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・ しかし、ある夜――戦争がはじまって三年目のある秋の夜、日頃自分から話しかけたことのない主人が何思ったのかいきなり、「あんた奥さん貰うんだったら、女子大出はよしなさいよ。東条の細君、あれも女子大だといいますぜ。あんたの奥さんにはまア・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ 死んでもいい人間が佃煮にするくらいいるのに、こんな人が死んでしまうなんて、一体どうしたことであろうか。東条英機のような人間が天皇を脅迫するくらいの権力を持ったり、人民を苦しめるだけの効果しかない下手糞な金融非常処置をするような政府が未・・・ 織田作之助 「武田麟太郎追悼」
・・・ 新人が登場した時は、万人は直ちに彼を酷評してはならない。むしろ多少の欠点には眼をつむって、大いにほめてやることが、彼を自信づけ、彼が永年胸にためていたものを、遠慮なく吐き出させることになるのだ。起ち上りぎわに、つづけざまに打たれて・・・ 織田作之助 「文学的饒舌」
出典:青空文庫