・・・そう云う臆病ものを崇める宗旨に何の取柄がございましょう? またそう云う臆病ものの流れを汲んだあなたとなれば、世にない夫の位牌の手前も倅の病は見せられません。新之丞も首取りの半兵衛と云われた夫の倅でございます。臆病ものの薬を飲まされるよりは腹・・・ 芥川竜之介 「おしの」
・・・ そこで、茨城の方の田舎とやらに病院を建てた人が、もっともらしい御容子を取柄に副院長にという話がありましたそうで、早速家中それへ引越すことになりますと、お米さんでございます。 世帯を片づけついでに、古い箪笥の一棹も工面をするからどち・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・――雪の中を跣足で歩行く事は、都会の坊ちゃんや嬢さんが吃驚なさるような、冷いものでないだけは取柄です。ズボリと踏込んだ一息の間は、冷さ骨髄に徹するのですが、勢よく歩行いているうちには温くなります、ほかほかするくらいです。 やがて、六七町・・・ 泉鏡花 「雪霊記事」
・・・ しかしあの男のどこに取柄があります。第一、と言いかけるを押し止めて、もういいわ、お前はお前の了簡で嫌うさ。私は私で結交うから、もうこのことは言わぬとしよう。それでいいではないか。顔を赤め合うのもつまらんことだ。と言えども色に出づる不満・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・ 温和で正直だけが取柄の人間の、その取柄を失なったほど、不愉快な者はあるまい。渋を抜た柿の腐敗りかかったようなもので、とても近よることは出来ない。妻が自分を面白からず思い気味悪るう思い、そして鬱いでばかりいて、折り折りさも気の無さそうな・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・私は、高等学校へはいってからは、休暇になっても田舎へ帰らず、たいてい東京の戸塚の、兄の家へ遊びに行って、そうして兄と一緒に東京のまちを歩きまわりました。兄は、ずいぶん嘘をつきました。銀座を歩きながら、「あッ、菊池寛だ。」と小さく叫んで、・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・マルタの妹のマリヤは、姉のマルタが骨組頑丈で牛のように大きく、気象も荒く、どたばた立ち働くのだけが取柄で、なんの見どころも無い百姓女でありますが、あれは違って骨も細く、皮膚は透きとおる程の青白さで、手足もふっくらして小さく、湖水のように深く・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・私はたいてい全部を失い、身一つでのがれ去り、あらたにまた別の土地で、少しずつ身のまわりの品を都合するというような有様であった。戸塚。本所。鎌倉の病室。五反田。同朋町。和泉町。柏木。新富町。八丁堀。白金三光町。この白金三光町の大きな空家の、離・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・でも、あたしの取柄は、アンマ上下、それだけじゃないんですよ。それだけじゃ、心細いわねえ。もっと、いいとこもあるんです」 素直に思っていることを、そのまま言ってみたら、それは私の耳にも、とっても爽やかに響いて、この二、三年、私が、こんなに・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・ 戸塚。──私は、はじめ、ここにいたのだ。私のすぐ上の兄が、この地に、ひとりで一軒の家を借りて、彫刻を勉強していたのである。私は昭和五年に弘前の高等学校を卒業し、東京帝大の仏蘭西文科に入学した。仏蘭西語を一字も解し得なかったけれども、そ・・・ 太宰治 「東京八景」
出典:青空文庫