・・・「私は、おまえをとろうとは思っていない。私は、いまなにもたべたくない。静かに、昔のことを思っていたのだ。春から夏にかけては、私たち、生物は、だれもかれも幸福なものだった。それから見れば、いまのものは、かわいそうだと思うよ。」 こうが・・・ 小川未明 「冬のちょう」
・・・着物を着かえてお母ちゃんを待っとろと言うたりしてなあ」「お祖母さんがぼけはったのはあれからでしたな」姉は声を少しひそませて意味の籠った眼を兄に向けた。「それがあってからお祖母さんがちょっとぼけみたいになりましてなあ。いつまで経っても・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・どこかに捜して宿をとろうか、それとも今の女のところへ帰ってゆこうか、それはいずれにしても私の憎悪に充ちた荒々しい心はこの港の埠頭で尽きていた。ながい間私はそこに立っていた。気疎い睡気のようなものが私の頭を誘うまで静かな海の暗を見入っていた。・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・ 主人は最後の酒杯をじっと見ていたが、その目はとろんこになって、身体がふらふらしている。『やっぱり四合かな。』 三人とも暫時無言。外面はしんとして雨の音さえよくは聞こえぬ。『お前さん薬が利いたじゃアないか。』『ハハハハハ・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・ 前夜から洗っておいて、水加減を多くし、トロ火でやわらかくそしてふきこぼれないようにたいてみた。 小豆飯にたいてみた。 食塩をいれていく分味をつけてみた。 寒天をいれて、ねばりをつけた。 片栗をいれてねばりをつけた。・・・ 黒島伝治 「外米と農民」
・・・ そこから西へ、約三里の山路をトロッコがS町へ通じている。 住民は、天然の地勢によって山間に閉めこまれているのみならず、トロッコ路へ出るには、必ず、巡査上りの門鑑に声をかけなければならなかった。その上、門鑑から外へ出て行くことは、上・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・皆の眼はのぼせて、トロンとして、腐った鰊のように赤く、よどんでいた。 棒頭が一人走っていった。 もう一人がその後から走っていった。 百人近くの土方がきゅうにどよめいた。「逃げたなあ!」「何してる! ばか野郎、馬の骨!」 ・・・ 小林多喜二 「人を殺す犬」
・・・いちど私が、よせばいいのに、先生のご機嫌をとろうと思って、先生の座談はとても面白い、ちょっと筆記させていただきます、と言って手帖を出したら、それが、いたく先生のお気に召して、それからは、ややもすれば、坐り直してゆっくりした口調でものを言いた・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・いちいち真実を吐露し合っていたんじゃ、やり切れない。私は、いつもだましていた。それだから女房は、いつも私を好いてくれた。真実は、家庭の敵。嘘こそ家庭の幸福の花だ、と私は信じていた。この確信に間違い無いか。私は、なんだか、ひどい思いちがいして・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・永野の葉書には、『太宰治氏を十年の友と安んじ居ること、真情吐露してお伝え下され度く』とあるから、原因が何であったかは知らぬが、益々交友の契を固くせられるよう、ぼくからも祈ります。永野喜美代ほどの異質、近頃沙漠の花ほどにもめずらしく、何卒、良・・・ 太宰治 「虚構の春」
出典:青空文庫