・・・あすこを通った日は丁度お天気だったけれど、そうそう、その時は丁度日本では入梅だったんだ、僕は観測所へ来てしばらくある建物の屋根の上にやすんでいたねえ、やすんで居たって本当は少しとろとろ睡ったんだ。すると俄かに下で『大丈夫です、すっかり乾・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・ かげろうはお茶をとろうとして出した手を空にあげて、バタバタもがきながら、「あわれやむすめ、父親が、 旅で果てたと聞いたなら」と哀れな声で歌い出しました。「えい。やかましい。じたばたするな。」と蜘蛛が云いました。するとか・・・ 宮沢賢治 「蜘蛛となめくじと狸」
・・・「仕方ない、とろう。たしかによっぽどえらいひとなんだ。奥に来ているのは」 二人は帽子とオーバーコートを釘にかけ、靴をぬいでぺたぺたあるいて扉の中にはいりました。 扉の裏側には、「ネクタイピン、カフスボタン、眼鏡、財布、そ・・・ 宮沢賢治 「注文の多い料理店」
・・・ ある種の男のひとは、女が単純率直に心情を吐露するところがよとしているが、自分の心の真の流れを見ている女は、そういう言葉に懐疑的な微笑を洩すだろうと思う。現代の女は、決してあらゆる時と処とでそんなに単純素朴に真情を吐露し得る事情におかれ・・・ 宮本百合子 「新しい船出」
・・・ここに押しよせた連中は二十分の停車時間の間に、たった一人ののぼせた売子から箱かインク・スタンドか、或はYのようにモスクワから狙いをつけて来ている巻煙草いれかを、我ものにし、しかも大抵間違いなく釣銭までとろうと決心して、ゆずることなく押し合い・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・今太陽は海、出鼻の上を暖かく照らし、岸壁でトロを押している支那人夫の背中をもてらしている。 ウラジヴォストクでは、町の人気も荒そうに思われていた。来て見るとそれは違う。時間の関係か、街はおだやかだ。港もしずかだ。海の上を日が照らしている・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・と云ってのれんをくぐると眼のくちゃくちゃした六十許のお婆さんは丸くなってボートレースの稽古をしながら店ばんをして居たが重い大きい足音におどろかされてヒョット首をもちあげてトロンとした眼をこすりながら「何をあげますか」とねむたい声できく。「十・・・ 宮本百合子 「大きい足袋」
・・・男はそれをとろうとすると女はつ(ばやく手をひっこめてどこか分らないところににぎってしまった。男は手を出したら又刺されそうに思われたんでそのまんま又歩き出した。男は、女の前ではどんなに気を張ってもうなだれる自分の心をいかにもはかないものに思っ・・・ 宮本百合子 「お女郎蜘蛛」
・・・ 小さなこんなことでも、今日の青年の我知らず吐露している心理としてそこに注目するべき何かがある。日本の家庭の中に根づよい男の威張りや主張の癖に対して、こういう今日の若い人の心理は、事実上決してより新しく寛闊な家庭生活の習俗を生み出してゆ・・・ 宮本百合子 「家庭と学生」
・・・に反抗し、自分の独立と自由とを主張しようとして、女性だけに可能な出産という行為でそれを奪いとろうと試みる。ジュヌヴィエヴはいかにも十六歳の少女らしく、鋭いが未熟で現実的でない思惟と情熱とで、自分に子供を与えてくれるようにと、科学の教師である・・・ 宮本百合子 「結婚論の性格」
出典:青空文庫