・・・ 水にぬれた紙のごとく、とんと手ごたえがなく、頸も手も腰にも足にも、いささかだも力というものはない。父は冷えたわが子を素肌に押し当て、聞き覚えのおぼつかなき人工呼吸を必死と試みた。少しもしるしはない。見込みのあるものやら無いものやら、た・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・ また、また、父様はもう、とばかり光代は立ちかかりて、いきなり逆手に枕をはずせば、すとんと善平は頭を落されて、や、ひどいことをすると顔をしかめて笑う。いい気味! と光代は奪上げ放しに枕の栓を抜き捨て、諸手に早くも半ば押し潰しぬ。 よ・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・齢は五十を超えたるなるべけれど矍鑠としてほとんと伏波将軍の気概あり、これより千島に行かんとなり。 五日、いったん湯の川に帰り、引かえしてまた函館に至り仮寓を定めぬ。 六日、無事。 七日、静坐読書。 八日、おなじく。 九日・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・今までとんと忘れていたけれど、もうこの貝殻も持っていたってつまらないと思って、一つずつ出しては離れの屋根を目がけて投げつける。屋根へ届くのは一つもない。みんな途中へ落ちる。落ちて木の葉が幽かに鳴る。今のは何とも答がなかったと思うと、しばらく・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・と言いながら、肉屋は、すとんと馬車使を引きずりおろしてつきはなし、馬の口をもって、むりやりに店先の方へまわすはずみに、馬は足をすべらして、ばたんとたおれかけました。「何だ何だ。」「どうしたんだ。」と、町中のものや通行人たちがどやどや・・・ 鈴木三重吉 「やどなし犬」
・・・ とみにとんと背中を押されて、よろめき、資生堂へはいった。ボックスにふたり向い合って坐ったら、ほかの客が、ちらちら男爵を盗み見る。男爵を見るのではなかった。そんな貧弱な青年の恰好を眺めたって、なんのたのしみにもならない。とみを見るのであ・・・ 太宰治 「花燭」
・・・ていて、祖父が若いとき、女の綱渡り名人が、村にやって来て、三人の女綱渡りすべて、祖父が頬被りとったら、その顔に見とれて、傘かた手に、はっと掛声かけて、また祖父を見おろし、するする渡りかけては、すとんすとんと墜落するので、一座のかしらから苦情・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・ とんと肩をたたかれた。振りむくと、うしろに、幸吉兄妹が微笑して立っている。「あ、焼けたね。」私は、舌がもつれて、はっきり、うまく言えなかった。「ええ、焼ける家だったのですね。父も、母も、仕合せでしたね。」焔の光を受けて並んで立・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・慶四郎君は起き上り、チョッと言って片足で床板をとんと踏む。それが如何にも残念そうに見えた。その動作が二十幾年後の今になっても私には忘れられず、慶四郎君と言えばその動作がすぐ胸中に浮んで来て、何だか慶四郎君を好きになるのである。慶四郎君は小学・・・ 太宰治 「雀」
・・・酒のにおいのこもった重くるしいうっとうしい空気が家の中に満ちて、だれもかれも、とんと気抜けのしたようなふうである。台所ではおりおりトン、コトンと魚の骨でも打つらしい単調な響きが静かな家じゅうにひびいて、それがまた一種の眠けをさそう。中二階の・・・ 寺田寅彦 「竜舌蘭」
出典:青空文庫