・・・あの女がまだ娘の時分に、この清水の観音様へ、願をかけた事がございました。どうぞ一生安楽に暮せますようにと申しましてな。何しろ、その時分は、あの女もたった一人のおふくろに死別れた後で、それこそ日々の暮しにも差支えるような身の上でございましたか・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・おまえどうぞ私のからだの中から金をはぎとってそれをくわえて行って知れないようにあの窓から投げこんでくれまいか」 とこういうたのみでした。燕は王子のありがたいお志に感じ入りはしましたが、このりっぱな王子から金をはぎ取る事はいかにも進みませ・・・ 有島武郎 「燕と王子」
・・・ 十一「どうぞこれへ。」 椅子を差置かれた池の汀の四阿は、瑪瑙の柱、水晶の廂であろう、ひたと席に着く、四辺は昼よりも明かった。 その時打向うた卓子の上へ、女の童は、密と件の将棋盤を据えて、そのまま、陽炎の・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・民子は私が手を掛けて殺したも同じ。どうぞ堪忍してくれ、政夫……私は民子の跡追ってゆきたい……」 母はもうおいおいおいおい声を立てて泣いている。民子の死ということだけは判ったけれど、何が何やら更に判らぬ。僕とて民子の死と聞いて、失神するほ・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・――うちの人は、いつも、あないなことばかり云うとります。どうぞ、しかってやってお呉れやす。」「まア、こういう人間は云いたいだけ云わして置きゃア済むんですよ。」「そうどすか?」と、細君は亭主の方へ顔を向けた。「まだ女房にしかられる・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・「あの、どうぞわたくしを縛って下さいまし、わたくしは決闘を致しまして、人を一人殺しました。」 それを聞いた役場の書記二人はこれまで話に聞いた事もない出来事なので、女房の顔を見て微笑んだ。少し取り乱してはいるが、上流の奥さんらしく見える人・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・「わたしは、どんなにでも働きますから、どうぞ知らない南の国へ売られてゆくことは、許してくださいまし。」といいました。 しかし、もはや、鬼のような心持ちになってしまった年寄り夫婦は、なんといっても、娘のいうことを聞き入れませんでした。・・・ 小川未明 「赤いろうそくと人魚」
・・・私にはよく分りましたけど、全くそういうわけで御返事を上げなかったんですから……さあどうぞお敷き下さい」 お光は蓐火鉢と気を利かして、茶に菓子に愛相よくもてなしながら、こないだ上った時にはいろいろ御馳走になったお礼や、その後一度伺おう伺お・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ああ、これから天国のお庭の梨の実を盗んで参りますから、どうぞお目留められて御一覧を願います。」 爺さんはそう言いながら、側に置いてある箱から長い綱の大きな玉になったのを取り出しました。それから、その玉をほどくと、綱の一つの端を持って、そ・・・ 小山内薫 「梨の実」
・・・お部屋の用意をしてお待ち申しておりやんすによって、どうぞごゆるりお越し下されやんせッ」 あっという間に、闇の中へ走りだしてしまった。 私はことの意外におどろいた。「あ、ちょっと……。宿はどこですか。どの道を行くんですか。ここ真っ・・・ 織田作之助 「秋深き」
出典:青空文庫