・・・ふと相手に気がついて見ると、恵蓮はいつか窓際に行って、丁度明いていた硝子窓から、寂しい往来を眺めているのです。「何を見ているんだえ?」 恵蓮は愈色を失って、もう一度婆さんの顔を見上げました。「よし、よし、そう私を莫迦にするんなら・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・――××もまた同じことだった。長雨の中に旗を垂らした二万噸の××の甲板の下にも鼠はいつか手箱だの衣嚢だのにもつきはじめた。 こう云う鼠を狩るために鼠を一匹捉えたものには一日の上陸を許すと云う副長の命令の下ったのは碇泊後三日にならない頃だ・・・ 芥川竜之介 「三つの窓」
彼は、秋になり切った空の様子をガラス窓越しに眺めていた。 みずみずしくふくらみ、はっきりした輪廓を描いて白く光るあの夏の雲の姿はもう見られなかった。薄濁った形のくずれたのが、狂うようにささくれだって、澄み切った青空のこ・・・ 有島武郎 「親子」
・・・旱魃に饑饉なしといい慣わしたのは水田の多い内地の事で、畑ばかりのK村なぞは雨の多い方はまだ仕やすいとしたものだが、その年の長雨には溜息を漏さない農民はなかった。 森も畑も見渡すかぎり真青になって、掘立小屋ばかりが色を変えずに自然をよごし・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・遠くから眺めていると、自分の脱けだしてきた家に火事が起って、みるみる燃え上がるのを、暗い山の上から瞰下すような心持があった。今思ってもその心持が忘られない。 詩が内容の上にも形式の上にも長い間の因襲を蝉脱して自由を求め、用語を現代日常の・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・娘の白い頤の少しばかり動くのを、甘味そうに、屏風巌に附着いて見ているうちに、運転手の奴が、その巌の端へ来て立って、沖を眺めて、腰に手をつけ、気取って反るでしゅ。見つけられまい、と背後をすり抜ける出合がしら、錠の浜というほど狭い砂浜、娘等四人・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・季節、天気というものは、そんなに模様の変らないものと見えて、いつの年も秋の長雨、しけつづき、また大あらしのあった翌朝、からりと、嘘のように青空になると、待ってたように、しずめたり浮いたり、風に、すらすらすらすらと、薄い紅い霧をほぐして通る。・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・予はことさらに空を眺めて困った雨ですなアなど平気をよそおう。「あなたはほんとにおしあわせです」 お光さんはまず口を切った。「なにしあわせなことがあるもんですか、五人も六人も子どもがあってみなさい、どうにもこうにも動きのとれるもん・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・南の裏庭広く、物置きや板倉が縦に母屋に続いて、短冊形に長めな地なりだ。裏の行きとまりに低い珊瑚樹の生垣、中ほどに形ばかりの枝折戸、枝折戸の外は三尺ばかりの流れに一枚板の小橋を渡して広い田圃を見晴らすのである。左右の隣家は椎森の中に萱屋根が見・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・と眼が覚めて寝つかれないので、何心なく窓をあけて見ると、鴎外の書斎の裏窓はまだポッカリと明るかった。「先生マダ起きているな、」と眺めていると、その中にプッと消えた。急いで時計を見ると払暁の四時だった。「これじゃアとても競争が出来ない、」とそ・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
出典:青空文庫