・・・するとここにまた思いもよらない不思議が起ったと申しますのは、春日の御社に仕えて居りますある禰宜の一人娘で、とって九つになりますのが、その後十日と経たない中に、ある夜母の膝を枕にしてうとうとと致して居りますと、天から一匹の黒竜が雲のように降っ・・・ 芥川竜之介 「竜」
・・・――この蝶が、境内を切って、ひらひらと、石段口の常夜燈にひたりと附くと、羽に点れたように灯影が映る時、八十年にも近かろう、皺びた翁の、彫刻また絵画の面より、頬のやや円いのが、萎々とした禰宜いでたちで、蚊脛を絞り、鹿革の古ぼけた大きな燧打袋を・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・朝々の定まれる業なるべし、神主禰宜ら十人ばかり皆厳かに装束引きつくろいて祝詞をささぐ。宮柱太しく立てる神殿いと広く潔らなるに、此方より彼方へ二行に点しつらねたる御燈明の奥深く見えたる、祝詞の声のほがらかに澄みて聞えたる、胆にこたえ身に浸みて・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・ わたくしは小笹の茂った低い土手を廻って、漸く道を求め、古松の立っている鳥居の方へ出たが、その時冬の日は全く暮れきって、軒の傾いた禰宜の家の破障子に薄暗い火影がさし、歩く足元はもう暗くなっていた。わたくしは朽廃した社殿の軒に辛くも「元富・・・ 永井荷風 「元八まん」
・・・白木の宮に禰宜の鳴らす柏手が、森閑と立つ杉の梢に響いた時、見上げる空から、ぽつりと何やら額に落ちた。饂飩を煮る湯気が障子の破れから、吹いて、白く右へ靡いた頃から、午過ぎは雨かなとも思われた。 雑木林を小半里ほど来たら、怪しい空がとうとう・・・ 夏目漱石 「二百十日」
「禰宜様宮田」が、いつか単行本になる時があったら、是非云い添えたいと思っていたことを書きます。 あれは、そんなに大して大きなものでもなかったのに、非常に沢山の欠点を持っています。其等の欠点に対しての自分は、真個に何処まで・・・ 宮本百合子 「沁々した愛情と感謝と」
・・・ 大きな楓の樹蔭にあぐらをかき、釣糸を垂れながら禰宜様宮田はさっきから、これ等の美しい景色に我を忘れて見とれていたのである。「まったくはあ、偉えもんだ……」 彼は思わずもつぶやく。 そして、自分の囲りにある物という物すべてか・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・「禰宜様宮田」人道主義的作家見習いにはなったが、当時の所謂文壇とはちっとも交渉がなかった。わずかに久米正雄、芥川龍之介などを知るだけで、自分が文壇の中へ入ろうとは思っていなかった。民族的滅亡に追いこまれているアイヌのことを書・・・ 宮本百合子 「年譜」
出典:青空文庫