・・・ 口を極めてすでに立ち去りたる巡査を罵り、満腔の熱気を吐きつつ、思わず腕を擦りしが、四谷組合と記したる煤け提灯の蝋燭を今継ぎ足して、力なげに梶棒を取り上ぐる老車夫の風采を見て、壮佼は打ち悄るるまでに哀れを催し、「そうして爺さん稼人はおめ・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・六月にはいると、盆地特有の猛烈の暑熱が、じりじりやって来て、北国育ちの私は、その仮借なき、地の底から湧きかえるような熱気には、仰天した。机の前にだまって坐っていると、急に、しんと世界が暗くなって、たしかに眩暈の徴候である。暑熱のために気が遠・・・ 太宰治 「美少女」
・・・暑い午下りの熱気で、ドキン、ドキンと耳鳴りしている自分を意識しながら歩いている。その眼路のはるかつきるまで、咽喉のひりつくような白くかわいた道がつづいていた。 徳永直 「白い道」
・・・余はしゅっと云う音と共に、倏忽とわれを去る熱気が、静なる京の夜に震動を起しはせぬかと心配した。「遠いよ」と云った人の車と、「遠いぜ」と云った人の車と、顫えている余の車は長き轅を長く連ねて、狭く細い路を北へ北へと行く。静かな夜を、聞かざる・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・本丸の左右に懸け離れたる二つの櫓は本丸の二階から家根付の橋を渡して出入の便りを計る。櫓を環る三々五々の建物には厩もある。兵士の住居もある。乱を避くる領内の細民が隠るる場所もある。後ろは切岸に海の鳴る音を聞き、砕くる浪の花の上に舞い下りては舞・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・若さは、この人物のうちにあって、瑞々しいというようなものではなく、もっと熱気がつよく、動力蒸気の噴出めいている。 話しの合間合間に交えられる手振も徳田さん独特だし、その手の指には網走の厳しい幾冬かが印した凍傷の痕があるのである。大いに笑・・・ 宮本百合子 「熱き茶色」
・・・ 広場の土は数十万の勤労者の足に踏みしだかれ、ポコポコになって、昼間の熱気を含んでいる。ところどころに急設された水飲場の水道栓から溢れる水が、あたりの砂にしみている。河の方から吹く風は爽かだ。 広場に向って開いているラジオ拡声機から・・・ 宮本百合子 「インターナショナルとともに」
・・・家庭のまわりのものに影響の及ぼさぬ程の熱気とぼしい存在で、巨大な芸術的天分を発揮し得よう筈はなく、それらの人々の子は誇りをもって父を語ることこそ自然である。だが私は、最も人間性の発展、独自性、時代性、そこに生じるさまざまの軋轢、抗争の価値を・・・ 宮本百合子 「鴎外・漱石・藤村など」
・・・ 斯うした種々の気持は皆一まとめになって物音もしない熱気の漲る病人の小部屋にながれて行くのであった。わびしそうな姿をして、口をもきかずに息子のわきについて居る父親は、自分の子をつれて行く黒馬車を待ちながら堪えられぬ怖れに迫られて居る様に・・・ 宮本百合子 「黒馬車」
・・・で、父親という一応熱気をさましたような立場から少女たちの身のそよぎを充分官能をもって再現しているように。 室生氏の場合は、作者の好みが多分に働いている。そういう好みが、文学のこととして含んでいる問題は別として、この作者はそういうとりあわ・・・ 宮本百合子 「作品の主人公と心理の翳」
出典:青空文庫