・・・彼女は二階の寝間を後に、そっと暗い梯子を下りると、手さぐりに鏡台の前へ行った。そうしてその抽斗から、剃刀の箱を取り出した。「牧野め。牧野の畜生め。」 お蓮はそう呟きながら、静に箱の中の物を抜いた。その拍子に剃刀のにおいが、磨ぎ澄まし・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・いますもの、そしてね貴方、誰かを掴えて話でもするように、何だい誰だ、などと言うではございませんか、その時はもう内曲の者一同、傍へ参りますどころではございませんよ、何だって貴方、異類異形のものが、病人の寝間にむらむらしておりますようで、遠くに・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・その奥に真暗な四畳の寝間があった。その他には半坪の流し場があるきりで、押入も敷物もついてなかった。勾配のひどく急な茅屋根の天井裏には煤埃りが真黒く下って、柱も梁も敷板も、鉄かとも思われるほど煤けている。上塗りのしてない粗壁は割れたり落ちたり・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・ 自分はそのまま帯を風呂敷に包んで元の所に置き、寝間に還って長火鉢の前に坐わり烟草を吹かしながら物思に沈んだ。自分は果してあの母の実子だろうかというような怪しい惨ましい考が起って来る。現に自分の気性と母及び妹の気象とは全然異っている。然・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・そして御隠居さんの寝間の障子を細目にあけ、敷居のところに手をついて、毎朝の御機嫌を伺ったものだという。年若い頃のお三輪に、三年の茶の道と、三味線や踊りの芸を仕込んでくれたのも母だ。財産も、店の品物も、着物も、道具も――一切のものを失った今と・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・を好み、長ずるに及んで立志出郷、もっぱら六法全書の糞暗記に努め、質素倹約、友人にケチと言われても馬耳東風、祖先を敬するの念厚く、亡父の命日にはお墓の掃除などして、大学の卒業証書は金色の額縁にいれて母の寝間の壁に飾り、まことにこれ父母に孝、兄・・・ 太宰治 「家庭の幸福」
・・・更に、 寝間の窓から、羅馬の燃上を凝視して、ネロは、黙した。一切の表情の放棄である。美妓の巧笑に接して、だまっていた。緑酒を捧持されて、ぼんやりしていた。かのアルプス山頂、旗焼くけむりの陰なる大敗将の沈黙を思うよ。 一噛の歯には・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
・・・ 五 朝二階の寝間の床の上で目をさまして北側の中敷窓から見ると隣の風呂の煙突が見える。煙突と並行して鉄の梯子が取り付けてあるのによくすずめの群れが来て遊んでいる。まず一羽飛んで来て中段に止まる。あとからすぐに一羽・・・ 寺田寅彦 「藤棚の陰から」
・・・どうかすると、そこで酔い倒れてしまったのを、おおぜいで寝間までかつぎ込んだものである。どうかするときげんのよくない時もあって、そういう時は子供らは近づいてはいけない事になっていた。 春田は十二三年前に五十余歳で喉頭癌のためにたおれた。私・・・ 寺田寅彦 「亮の追憶」
・・・右にも同じ戸ありて寝間に通じ、この分は緑の天鵞絨の垂布にて覆いあり。窓にそいて左の方に為事机あり。その手前に肱突の椅子あり。柱ある処には硝子の箱を据え付け、その中に骨董を陳列す。壁にそいて右の方にゴチック式の暗色の櫃あり。この櫃には木彫の装・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
出典:青空文庫