・・・そこにはすでに二年前から、延べの金の両端を抱かせた、約婚の指環が嵌っている。「じゃ今夜買って頂戴。」 女は咄嗟に指環を抜くと、ビルと一しょに彼の前へ投げた。「これは護身用の指環なのよ。」 カッフェの外のアスファルトには、涼し・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・たいへんやさしい王子であったのが、まだ年のわかいうちに病気でなくなられたので、王様と皇后がたいそう悲しまれて青銅の上に金の延べ板をかぶせてその立像を造り記念のために町の目ぬきの所にそれをお立てになったのでした。 燕はこのわかいりりしい王・・・ 有島武郎 「燕と王子」
・・・おしろい真白な婦人が、二皿の粽を及び腰に手を延べて茶ぶ台の上に出した。予は細君と合点してるが、初めてであるから岡村の引合せを待ってるけれど、岡村は暢気に済してる。細君は腰を半ば上りはなに掛けたなり、予に対して鄭嚀に挨拶を始めた、詞は判らない・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・明日じゅうに判らぬことが、二日延べたとて判る道理があんめい。そんな人をばかにしたような言を人様にいえるか、いやとも応とも明日じゅうには確答してしまわねばならん。 おとよ、なんとかもう少し考えようはないか。両親兄弟が同意でなんでお前に不為・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ で、私はまた上り口へ行って、そこに畳み寄せてあった薄い筵のような襤褸布団を持ってきて、それでも敷と被と二枚延べて、そして帯も解かずにそのまま横になった。枕は脂染みた木枕で、気味も悪く頭も痛い。私は持合せの手拭を巻いて支った。布団は垢で・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ 生島はだんだんもつれて来る頭を振るようにして電燈を点し、寝床を延べにかかった。 3 石田はある晩のことその崖路の方へ散歩の足を向けた。彼は平常歩いていた往来から教えられたはじめての路へ足を踏み入れたとき、いった・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・今しも届きたる二三の新聞を読み終りて、辰弥は浴室にと宿の浴衣に着更え、広き母屋の廊下に立ち出でたる向うより、湯気の渦巻く濡手拭に、玉を延べたる首筋を拭いながら、階段のもとへと行違いに帰る人あり。乙女なり。かの人ぞと辰弥は早くも目をつけぬ。思・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・ 春霞たなびく野辺といえどもわが家ののどけさには及ぶまじく候 ここに父上の祖父様らしくなられ候に引き換えて母上はますます元気よろしくことに近ごろは『ワッペウさん』というあだ名まで取られ候て、折り折り『おしゃべり』と衝突なされ候ことこれま・・・ 国木田独歩 「初孫」
・・・あたかも野辺にさすらいて秋の月のさやかに照るをしみじみと眺め入る心持と或は似通えるか。さりとて矢も楯もたまらずお正の許に飛んで行くような激越の情は起らないのであった。 ただ会いたい。この世で今一度会いたい。縁あらば、せめて一度此世で会い・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・ある晩のことに私が床を延べていますと、お俊が飛んで参りまして、『どうせ私じゃお気に入りませんよ』と言いざま布団を引ったくって自分でどんどん敷き『サア、旦那様お休みなさい、オー世話の焼ける亭主だ』と言いながら色気のある眼元でじっと私を見上・・・ 国木田独歩 「女難」
出典:青空文庫