・・・ほんに世の中の人々は、一寸した一言をいうては泣き合ったり、笑い合ったりするもので、己のように手の指から血を出して七重に釘付にせられた門の扉を叩くのではない。一体己は人生というものについて何を知っているのだろう。なるほどどうやら己も一生という・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・甲板に上り著くと同時に痰が出たから船端の水の流れて居る処へ何心なく吐くと痰ではなかった、血であった。それに驚いて、鱶を一目見るや否や梯子を下りて来て、自分の行李から用意の薬を取り出し、それを袋のままで着て居る外套のカクシへ押し込んで、そうし・・・ 正岡子規 「病」
・・・それはまるで赤や緑や青や様々の火がはげしく戦争をして、地雷火をかけたり、のろしを上げたり、またいなずまがひらめいたり、光の血が流れたり、そうかと思うと水色の焔が玉の全体をパッと占領して、今度はひなげしの花や、黄色のチュウリップ、薔薇やほたる・・・ 宮沢賢治 「貝の火」
・・・それから切符を買って、イーハトーヴ行きの汽車に乗りました。汽車はいくつもの沼ばたけをどんどんどんどんうしろへ送りながら、もう一散に走りました。その向こうには、たくさんの黒い森が、次から次と形を変えて、やっぱりうしろのほうへ残されて行くのでし・・・ 宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」
・・・ 年老いた私共は、その若人のするほどにも思われなければ又する勢ももう失せて仕舞うたのじゃ――が年若い血のもえる人達はようする力をもってじゃ。 身分の高い低いを思ってするのではござらぬワ。 体中をもって狂いまわる血の奴めが思う御人・・・ 宮本百合子 「葦笛(一幕)」
・・・ずっとモスクワから乗りつづけて来たものは長い旅行が明日は終ろうとする前夜の軽い亢奮で。新しく今日乗り込んで来た連中は、列車ではじめての夕飯をたべながら。――(汽車の食堂は普通の食堂シベリアに雪はあるかと訊いた男が通路のむこう側のテーブルでや・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・シャツ、ヅボン下、鰻の罐詰、茶、海苔等なり。電話にて春陽堂へ『文学論評』の送付を促がす。売切の由答あり。二十五六日頃再版出来のよし」などと文化史的な興味深い記述の最後に「八重子『鳩公の話』といふ小説をよこす。出来よろし。虚子に送附」と書かれ・・・ 宮本百合子 「含蓄ある歳月」
・・・品川沖へ海苔とりに出たお爺さん漁師がモーターが凍ったところへいろいろ網にひっかかったりして不幸にも凍死したという話があります。私はゆうべも仕事をしていたがあまり寒いので寝てしまいました。寝ながら、さむいといってもここには火鉢があるということ・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・ 私は島田の父上[自注7]の御好物の海苔をおことづけ願いましたし、べったら漬もあるし、まあ東京からおかえりらしいお土産が揃って結構でした。 お立ちになってから林町へ一緒にまわってお風呂に入って、十二時一寸前家へかえりました。栄さんが・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・今、食堂に居たところ、先ず大きな大きな海苔まきのような毛布包みの泰子を抱いて寿江子が現われたと思ったら、ホゲーホゲーという声を先立てて、赤ちゃんを抱いたああちゃんが続いて御出現。泣き合せという光景です。御想像がつきますか? 私は二階へ上らざ・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
出典:青空文庫