・・・ 十二人の名誉職、医者、警部がいずれも立つ。のろのろと立つのも、きさくらしく立つのもある。顔は皆蒼ざめて、真面目臭い。そして黒い上衣と光るシルクハットとのために、綺麗に髯を剃った、秘密らしい顔が、一寸廉立った落着を見せている。 やは・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ まだ突立ったままで、誰も人の立たぬ店の寂しい灯先に、長煙草を、と横に取って細いぼろ切れを引掛けて、のろのろと取ったり引いたり、脂通しの針線に黒く畝って搦むのが、かかる折から、歯磨屋の木蛇の運動より凄いのであった。 時に、手遊屋の冷・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・ ほれ、のろのろとこっちさ寄って来るだ。あの、さきへ立って、丸太棒をついた、その手拭をだらりと首へかけた、逞い男でがす。奴が、女の幽霊でねえか。出たッと、また髯どのが叫ぶと、蜻蛉がひらりと動くと、かっと二つ、灸のような炎が立つ。冷い火を・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・視線の中へ、自動車がのろのろと徐行して来た。旅館では河豚を出さぬ習慣だから、客はわざわざ料亭まで足を運ぶ、その三町もない道を贅沢な自動車だった。ピリケンの横丁へ折れて行った。 間もなく、その料亭へよばれた女をのせて、人力車が三台横丁へは・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・牛や馬の群が、背に夕日をあびて、草原をのろのろ歩いていた。十月半ばのことだ。 坂本は、「腹がへったなあ。」と云ってあくびをした。「内地に居りゃ、今頃、野良から鍬をかついで帰りよる時分だぜ。」「あ、そうだ。もう芋を掘る時分かな・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
一 牝豚は、紅く爛れた腹を汚れた床板の上に引きずりながら息苦しそうにのろのろ歩いていた。暫く歩き、餌を食うとさも疲れたように、麦藁を短く切った敷藁の上に行って横たわった。腹はぶってりふくれている。時々、その・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・腿立を挙げる智慧も無かったと見えて袴を穿いたままのろのろと歩いていって、其儘上りこんで往ったものだから、代稽古の男に馬鹿々々、馬鹿々々と立続けに目の玉の飛び出るほど叱られた。振返って見ると、成程自分のあるいた跡は泥水が滴って畳の上にずーッと・・・ 幸田露伴 「少年時代」
・・・いいえ、それはもう、いまの日本では、私たちに限った事でなく、殊にこの東京に住んでいる人たちは、どちらを見ても、元気が無くおちぶれた感じで、ひどく大儀そうにのろのろと動き廻っていて、私たちも持物全部を焼いてしまって、事毎に身のおちぶれを感ずる・・・ 太宰治 「おさん」
・・・彼は、きょうの出来事はすべて忘れたような顔をして、のろのろと執務をはじめる。「とにかく、あの放送は、たのしみだなあ」 下僚は、なおも小声でお世辞を言う。しかし、この下僚は、少しも楽しみだと思っていないし、実際その放送の夜には、カスト・・・ 太宰治 「家庭の幸福」
・・・空を見あげたり肩をゆすったりうなだれたり木の葉をちぎりとったりしながらのろのろさまよい歩いているあの男と、それから、ここにいる僕と、ちがったところが、一点でも、あるか。 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
出典:青空文庫